碌碌犬
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 男は言葉を失った。 目の前の犬は今にも、こちらに向かって吠え掛かろうとしている。 低くうなりを続ける大型犬は、ぴったりと男の瞳に視線を合わせて、離そうとしない。 犬のリードをもつ、スーツ姿の役人も同じだ。
 刺すような犬の視線に目を合わせていると、意図せず全身から汗が噴出し、喉がカラカラに乾いた。視界が端から少しずつ暗くなっていくようだ。 自分の鼓動の音だけが、やけに大きく聞える。 呼吸がうまく出来ず、たまらず男は自室の壁に手をついた。
 その瞬間に、犬は、男に向かって咆哮を上げた。

「ワンワン!! ワンワン!!」

 腰を抜かした男は、ぎゅっと強く目を瞑った。
次に目を開いた時、男の瞳は絶望に塗りつぶされていた。 声にならない叫びは、力のない吐息となって薄暗い部屋に溶けてゆく。
 無表情なスーツの役人は、小さく一息を付いて、無慈悲な台詞を口にした。

「森園健太さん、あなたをコード66と認定する。 署まで同行願おうか。」



 自室から連行される息子を見て、母親は血相を変えて歩み寄ろうとするが、それは私服警官に阻まれた。
「ウソでしょう、刑事さん、冗談よね? これ、何かの間違いなんでしょう」
 息子は蒼白な顔をして、うつむいたまま、役人に連れられて玄関へと歩みだす。
その瞳は涙に濡れ、一瞬 母親の姿を見て唇を振るわせたものの、言葉にはならない。
「やめて、やめて下さいっ、ケンちゃんを連れていかないで! ケンちゃん!」
「奥さん、奥さん。 酷なことを言うようですが、どうか落ち着いて下さい」
「何を言ってるの!!だったら、ケンちゃんを連れていかないで下さい!ねぇっ、放して! ケンちゃんが何したっていうんですか!」
 母親の悲痛な叫び声に、スーツの役人はゆっくりと振り向いた。
冷たい無表情な瞳で母親を見つめ、つぶやくように言った。
「何をしたか、ですか。 いいえ、奥さん、『何もしない』からですよ。 ご安心下さい、息子さんは我々の訓練施設で、立派な大人に矯正してみせます」
 そして、もう一名の警官と、役人と、犬と、そして『66』と認定された男を送り出し、玄関の扉は、重々しい音を残して閉ざされた。
 嗚咽を漏らし、崩れ落ちる母親を、私服警官は言葉もなく見つめていた。


 夕方の空は重い雲に覆われ、どこもグレー一色に塗り固められていた。
 男は落ち着きなく肩をゆすり、今にも泣き出しそうな表情だが、そばにぴったりと張り付いた大型犬が、泣き出す事を許さない。 声を上げれば、すぐ足元で、ウウ、とうなり声をあげるのだ。
 マンションの階段を降りて、駐車場に停められた覆面パトカーにたどり着くと、役人は犬を男から離し、男を後部座席に乗せ、ドライバーに指示を出す。
 私服警官にリードを預けると、役人も男に続いて後部座席に腰掛け、扉を閉めた。
 膝の震えが収まらない男は、しかし犬を遠ざけた事で、いささかの安心を取り戻したかのようだった。
自分より少しばかり年少だが、稚い仕草の残る中年男性を一瞥すると、スーツの役人は、ポケットからハンカチを取り出し、男に手渡した。
「…これで、涙を拭くといい」
 その声は、先ほどの冷徹な声とは同一人物と思えないほどに、優しい。
「森園健太くん。 これから君が行くところは、わかるな?」
 男はしゃくりを上げながら、こくりと頷く。
「成人福祉施設です…」
「そうだ。 しばらく家を離れ、君は、立派な大人になるための訓練を行うことになる。」
 消え入りそうな、恐い、という声が聞えた。
 役人は笑顔を浮かべて、男の肩をたたいた。
「何、今は不安だろうが、良い所だと聞いている。 おふくろさんとは離れる事になるが、時々ならメールを送ることもできる。 何も不安がることはない。 向こうにつけば、きっとすぐに落ち着くよ。」
 役人は懐から一枚の名刺を取り出し、男に差し出した。
「私の名前は守矢和義という。 辛くなったら連絡をくれ。 入所してはじめのうちは、外部と連絡を取ることはできない決まりだが、真面目に訓練に取り組めば、すぐにメール文通の許可はおりるだろう。 不安だろうが、まずはそれまで、がんばろう。 …今日は、手錠をかける事なく済んで、救われたよ。 ありがとう。 きみなら、きっと立ち直ることができると信じているぞ。」
 男は名刺ごと、役人の差し出した手を握り締め、堰を切ったように泣きじゃくった。
彼の肩を再びたたき、役人はドライバーに目配せをして、車を降りた。

 助手席のそばで、私服警官が役人に犬のリードを手渡す。
美しい毛並みのラブラド−ル・レトリバーは、役人の足元の定位置に収まると、首を上げて周囲を警戒した。 通りの向かいの飼い犬たちが、強く吠え立てているが、大型犬はまるで意に介さない。
「守矢さん、お疲れ様でした。」
「ああ。」
 すっかり無表情に戻った役人に、警官は苦笑いし、後部座席で顔を覆って泣いている男をちらと見て、溜息をついた。
「えらく泣いているようですが、何て声をかけてやったんですか?」
「特別なことは、何も。」
「そうですか。」
 警官は、森園健太と書かれた資料に、軽蔑した眼差しを落とした。
「…しかし、ひどいもんですね。 40にもなって、定職もなく、実家にパラサイトして一日中ネットゲーム。 あげく母親にDVとは。 へえ、アルバイトもしたことがないのか。 こりゃあ、犬の出番などなくとも、66と認定されそうなもんです。 母上はえらく悲しんでいましたが、やっぱりこんな息子でも」
「私語はいいよ、青山くん。 よくあることだ。」
 物腰は柔らかだが、強い視線で、役人は警官をたしなめる。
「…は、これは失礼致しました。」
「66の送致を頼む。」
「了解しました。 ―しかし守矢さん、本当に歩いて帰るんですか? こりゃあひと雨きますよ。 乗っていったほうが」
「いや、いい。 行ってくれ。」
 それでは、と会釈して、警官は助手席に乗り込み、車はゆっくりと駐車場を後にした。
去ってゆく車のテールランプを見送り、ラブラドール・レトリバーと、そのリードを握る役人は、ゆっくりと歩き出した。


 傍らを、隙の無い動作で歩くその犬は、
警察犬や、麻薬探知犬に並び、近年新たに活躍する事となった訓練犬である。
 『 碌碌犬 』 ――その犬は、現代社会で役に立たたない者を、察知する訓練犬だ。

 かの犬に『碌碌』と認定された者――『コード66』と呼ばれる認定者は、
成人福祉施設と総称される施設へ送られ、そこで矯正訓練を受ける事となる。


 役人は、先ほど認定者に握られた手を見つめ、小さく息をついた。
コード66の認定者は、被疑者の権利すらもなく、その運命は決定づけられている。
 どのような訓練を受ける事となるのか、守谷は知らない。
だが、彼がこの任務について、引致し、復帰を願って名刺を渡した66の認定者からは、誰一人として、連絡が来たためしは無い。
 施設を出た者はみなうつろな瞳をして、まるで生気を感じさせない、勤勉なロボットにでも生まれ変わったかのように、まるでひとが変わってしまう。
施設を出る時には恐らく、森園健太も、別人となっていることだろう。

 ぽたり、ぽたりと、雨が降ってきていた。
歩きながら、傍らに繋がれた相棒を見る。

 ――いったい、何の権利があって――。

 リードを握り締めた手が、震える。
しかし、今、相棒が自分に向かって吼えたとしたら。 そう考えたとき、 一瞬湧き上がった殺意のような理不尽は、すぐに消える。 それがはたして、あきらめによるものか、恐怖によるものか、彼には判断がつかない。

 ただ、耳に張り付いた母親の悲鳴と、手に残った温度を心に刻みつけ、雨の中を、ゆっくりと帰路につく。 自分たちに向かって吠え立てる、近所の飼い犬達の声を聞きながら。

――おい、そこのラブラドールに繋がれたニンゲン。 お前だよ。 また同胞をホケンジョ送りにしたのか?

 飼い犬たちの鳴き声は、役人には理解することは出来ないが、
自分をあざ笑っているだろうという事だけは、朧げながら感じることが出来た。

 了

2011.02.28 Update.

  


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2010年にsleepdogさん主催の 犬祭4
に参加させて頂いた掌編です。
再掲載にあたり、加筆修正を行いました。


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