『 アクアリウム 』 (後編)
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柚子は、3つ年下だ。
今年で、大学2年生になる。
一人暮らしの俺の家に訪ねてくるようになったのは、ここ1年近くの事だ。
近所に越してきた柚子は、週に一度くらいの間隔で、うちを訪ねてくる。
なんでも、俺の母校の大学に進学したらしい。
それ以前はずっと音沙汰もなかったので、その事を知ったときは驚いた。
あの怠惰で不勉強で夢想家の柚子が、俺と同じ大学に合格するとは。
インターホンが鳴る。
ドアスコープの向うには見慣れた顔。
ドアを開けると、柚子はくったくのない笑顔を見せる。
「どうも。 宅急便でーす。」
手に提げたテイクアウトの夕食を掲げて、「食べない?」と目で問いかけてくる。
「いつもいきなりだなおい。 さっきもう食っちまったよ。」
「え、そうなの。 いいじゃん、もっかい食べれば。」
「んなに食えるかよ。」
「そっかまぁいいや。 とりあえず、電子レンジ借りるよー。」
強引に入ってきて、玄関口で履いていたグラディエーターブーツを脱ぐ。
バックファスナーだから履きやすいのこれ、と、この間 聞いても無いのに教えてくれたショートブーツだ。
この間の誕生日に、彼氏から贈って貰ったものらしい。
「いいけど、夜から大雨振るって、天気予報で言ってたぞ。 帰り大丈夫なのか。」
窓の外に広がるのは、ネオンで明るく照らされた梅雨空だ。
「大丈夫。 傘持ってきてるから。」
柚子は勝手知ったるという風で、キッチンでテイクアウトの包装を解くと、手を洗って、
戸棚から割り箸まで取り出した。
「送らんぞー、おれは。 酒のむぞ。」
溜息をついて、俺はリビングのソファに座った。
テーブルに広げられた柚子の夕食は、最近 近くの公園前に出来た自然食カフェのものだ。
『安くて うまくて 身体にいい』と、結構評判が良い。
キッチンを動き回る柚子の姿を見ていると、変わったなぁと、しみじみ思う。
おさげ髪は 手入れの行き届いたロングヘアに変わり、メガネはコンタクトに変わり、
服装も、ずいぶんお洒落になった。
柚子が中学三年に上がった年に、ちょうど俺は大学に進学して地元を離れたが、
あの頃の写真と比べたら、別人といっても通じるかもしれない。
変わったのは外見だけではなく、性格も、明るく社交的になったようだ。
昔を良く知るおれからすれば、隅っこでおとなしくしていた彼女の、
一体どこにそんな性格が隠れていたのだろうと不思議に思えたが、
今では友達も多く、恋人もいるようだ。
レンジで温かさを取り戻した料理は、湯気とおいしそうな香りをたて、
俺は少しばかり、つまみ食いしたくなってきた。
「なあ」
「なに?」
小首をかしげる仕草。
丸い大きな目が、ぱちりと瞬きする。
「おれもやっぱ、食べたい。 ちょっとくれ」
大きな目は半円の形ににっこりと微笑んで、
「いいよ。」
と快い返事が返ってきた。
持ってきた夕食を食べ終えると、柚子はソファからいつものように水槽を眺めた。
どれだけ時間が経っても、外見が変わっても、
柚子がこうして水槽を眺める様子は、昔も今も変わらないような気がする。
今部屋にあるものは、実家の水槽とは、全然サイズが違うけど。
そのあたりは気にならないのか、柚子は頬杖をついたり、腕を組んだりと変わらぬ仕草で、
ぼーっと、憧憬するように水の中の世界を眺めている。
「ああ、魚に生まれてくればよかったなあ。」
柚子はしみじみとそういって、ひらひらと泳ぐ熱帯魚を目で追いかけている。
俺はソファでその横顔を見て、思わず苦笑いしてしまう。
柚子のそれを聞きながら、俺もいつものように窓の外を眺めている。
その言葉の先がつづられることは、今はもうない。
「ワイン飲むか?」
柚子は水槽から顔をこっちに向けて、嬉しそうな笑顔を見せる。
「高いやつ?」
「値段はわからん。 この間 親父が置いてったやつだ。 なんか古いやつ。さっき飲もうと思って、ディキャンタージュしてたとこだよ。」
「じゃ絶対高い奴だね…飲む飲む。」
「待ってな。」
テレビの前を横切り、2人分のワイングラスを取りにキッチンへ向かった。
つまみに冷蔵庫から取り出したチーズと、クラッカーを皿に載せて、
ソファに戻っても、やっぱり柚子はまだ飽きることなく水槽を見つめていた。
「ありがとう。」
ワインを満たしたグラスを嬉しそうに受け取って、柚子は上機嫌だ。
静かに乾杯する。
隣室のないマンションのこの一室は、高層階で外の喧騒も届かず、
室内には水槽の立てる水音のほかは何も聞えない。
「おいしいね、これ。」
柚子は酒が好きだけど、あまり強くない。
すぐに空けて、もうちょっと頂戴、とお代わりを要求してきたが、
深酒なんてさせたら、あとで誠吾になんていわれるかわからんから、ほどほどに注いでやる。
しかし、ほどほどのつもりが飲ませすぎたのか、それともいつもよりも体調が良くなかったのか、
みるみるうちに真っ赤になった柚子は、怪しい口元でへらへらと話しはじめた。
「このあいださ」
「うん」
「付き合ってた人と、別れたんだ。」
クラッカーをほおばったまましゃべるので、ちょっとむせている。
たぶん、あのショートブーツをくれた彼氏のことだろう。
「そう。」
「うん。」
笑いを堪えるようにして話す姿は、ちっとも未練を引きずっているようには見えない。
一応、どうして、と聞いてみると、
うーん、と首をかしげた後で、柚子はなんだか自信なさげに答えた。
「性格の不一致…?」
「具体的に言うと」
「…めんどくさかった。」
「ひでえな。 相手の男が気の毒だ。」
「だって、いちいち理屈っぽいし、すぐ怒るし、ケチだし。 なんか違うなあと思ったの。」
俺は思わず溜息をついた。
「そっか。」
「うん。」
「話を聞いてる分には、似たもの同士だと思ったんだけどな」
「えっ、あたし理屈っぽい?」
「ある程度ケチなのはたしかだね。」
ワイングラスの向うで、幼馴染は、ははーん、と目を細める。
「さてはタダ酒飲みにくるの根に持ってるの? いーじゃん、ケンちゃんちお金持ちなんだからさあー。」
俺は笑った。
その発想がケチくさいんだよ。
言えば、向うがまたムキになるのはわかりきっているから、口にしない。
確かにこの部屋は、ひとりでは少し広すぎる。
タダ酒がどうこうはさておき、柚子がやってくる事を嬉しく感じるのには、違いなかった。
話すうちに彼女はだんだんと眠そうに目を細め、最後は俺の膝のそばで、猫のようにまるくなって眠った。
時計は、午前1時過ぎ。
相変わらず、夜には弱いらしい。
やれやれと、俺はその手から危なげなワイングラスを取り上げ、持ってきた毛布を掛けてやった。
「……。」
寝顔も、昔となにひとつ変わらないように感じた。
無邪気な、顔だった。
携帯電話を取り出して、こいつの兄貴の番号を呼び出す。
柚子は今、誠吾と2人で暮らしているのだ。
一報入れておかないと、後が五月蝿い。
誠吾も昔から変わらず、柚子に過保護な兄貴だった。
「ああ、誠吾。 俺だよ――。」
いつのまにか雨の降り出した窓の外は、時折雷が雲の中を駆けている。
締め切った室内にも、遠く雨の音が聞えてくる。
気が付けば外は、予報どおりの大雨だった。
柚子の見ていた水槽に目がいった。
薄いガラスに包まれた、水の中の世界に憧憬を抱いたのは、柚子だけではない。
――今も昔も、夢を見ている。
静かな水音の部屋に、二匹の魚になって。
踊るように、いつまでも一緒に泳ぎ続ける夢だ。
もう終わりにしてくれ、と誠吾は言う。
また一方で、柚子を傷つけないでくれとも言う。
懇願するようなその声を、何度も受話器越しに聞いた。
言うまでもなく、俺も、同じ気持ちだ。
“お前と同じように、俺にとっても柚子は、妹同然だよ。”
そう言葉にしながら、胸が苦しくなる。
『謙一には、婚約者がいるだろう。 柚子の気持ちが報われることはない。
――だから出来るだけ、あいつを傷つけないで、離れてやってくれないか。』
いつもと同じその台詞に、いつものように肯定する。
何度同じ事を言っているのかと、自問しながら。
とっくに気が付いているのだ。
冷静を装い、同時に心のどこかで捨て鉢になっていく自分自身の変化にも。
傷つける事を恐れた末の選択こそが、誰もかもを傷つけてしまうということにも。
アルコールで洗浄できない感情は、むしろ酒を足せば足すほど、その本性を現しそうで恐かった。
それでもおれは、ワインのボトルが空になれば、次は冷えた缶のプルタブを起こさずにはいられなかった。
(――ケンちゃんは、こわいものないの?)
雲を奔る稲光にその答えを求めるように、何度も何度も、誰かの問いかけを思い出していた。
明け方ちかく、柚子が目を覚ました。
いつのまにか雨はやみ、ゆっくりと朝日が昇り始めている。
「…ケンちゃん。」
柚子は化粧の崩れた顔で、膝の位置から心配そうに俺を覗き込む。
「おはよう。」
「―…うん、おはよう。 大丈夫? ――…目、真っ赤だよ。」
「ああ、大丈夫だよ。 ――よく眠れたか。」
「うん。 今、何時…?」
「5時ちょい前だよ。 …そろそろ電車が動き出す。」
「そっか…。」
「雨も上がったみたいだ。」
「…うん。」
毛布の端から、細くて白い手が伸びてくる。
冷たい手の感触を頬に感じて、俺は目を閉じる。
「柚子。」
――もう、終わりにしなくてはいけない。
「帰れよ。」
開いた俺の目に映ったものは、静かに見開かれた彼女の瞳だった。
傷ついている。 だけど何も反論はしないだろう。
そんな色を称えた瞳が、まっすぐに俺を見ていた。
「…恵美を呼ぶ。」
恋人の名前を口にして、目を反らす。
その名前を聞いたとき、彼女がいつも静かに引き下がることを、知っている。
「……うん、わかった。」
頬からゆっくりと、冷たい手が離れてゆく。
立ち上がり、律儀に毛布を畳んだ柚子は、
鞄を手に持ち、静かに部屋の外に向かって歩きだした。
見送りもせず立ち尽くしたまま、その背中に投げかけた。
「もう、ここへは来るな。」
その一言に、彼女の肩が一瞬震え、そして、ゆっくりと振り向いた。
蒼白な無表情だった。
「どうして…?」
努めてそうしているような、無機質な声。
ただ、いっぱいに涙を称えた瞳が、責めるように俺を見つめた。
重苦しい部屋の中で、水槽の立てる水音だけが、ころころと軽やかにひびく。
自問自答をしているようだった。
「わかってるだろ。」
これは、釣堀ごっこじゃない。
「お前がいくら待っても、俺の気持ちは変わらないよ。」
『怠惰』で『不勉強』な妹が、俺に追いつく為に必死になって勉強して、
俺と同じ高校を出て、同じ大学に入って、懸命に追いかけてきたその姿を、俺は知っている。
だけど、もう終わりだ。
彼女の想いに、俺は応えることはしない。
「……イヤだ。」
ぽろぽろと、柚子の頬に涙がこぼれた。
遠い昔のビデオを見ているようだ。
彼女が泣くのが辛くて、俺はいつも安全でくだらない遊びばかりを選んできた。
彼女がもっと泣く台詞も知っていて、口をつぐんできた。
「泣いたって同じだ。」
「イヤだ!!」
鞄の持ち手を抱きしめるように握り締め、柚子は枯れた声を上げた。
締め付けられるような胸の痛みが、いっそうと酷さを増す。
この苦しさから、逃げたい一心でおれは、
彼女に近づき、その手首を握った。
「俺のこと、何も知らないだろ? ――俺は本当は、お前の思ってるような人間じゃないよ。」
乱暴に力を込め、壁に押し付ける。
小さく悲鳴をあげ、彼女が身体を強張らせる。
息のかかるような距離でそれを見つめ、顔を覗き込む。
「…魚に生まれれば、って言ってたな? 魚に生まれていれば、ずっと俺と一緒に居られたのにって。」
涙に濡れた瞳を、彼女は大きく見開いた。
たった一度だけ、あの大雨の日に聞いた言葉。
雷鳴でうやむやにされた彼女の告白。
それを哂って、俺は言葉にする。
痛みと恐怖にすくむ彼女を、また、傷つけることを。
「それなら、ペットにしてやってもいいよ。 ――何でも俺の言うことを聞けるならな。 …これでもまだ俺が好きか?」
俺の目に映ったのは、昔のように蒼白な彼女の表情。
その瞳が、色を失っていく。
柚子を傷つけないでくれ。
懇願するような親友の声が、脳裏をよぎる。
閉じるドアの音を聞ききながら、俺は哂った。
(――ケンちゃんは、こわいものないの?)
わかっていた。
あの日以来、俺は、この日がくる事が恐かったんだ。
部屋の中は、静かな水音だけ。
振り向くとそこには、彼女の好きだった風景が見える。
楽園のような、アクアリウムがある。
おわり。
2010.08.19 Update.
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