毒薬
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 「ああ・・・やっと完成だ。 長かった。」
 ティー博士は満足だった。 今、研究室の作業台の上には、彼が長年追い求めた研究の成果がある。 フラスコの中に3分の2ほど溜まった、乳白色の液体。 それこそ、彼が十年の歳月をつぎ込んで生み出したものだった。
 やっと完成したその液体を眺め、博士は満面の笑みを浮かべていた。 そこへ、分厚い鋼鉄製の扉を開いて、黒ずくめの格好をした男達が研究室に入ってきた。
「やっと完成したそうですね、博士、おめでとうございます。」
口々に祝いの言葉を述べる男達に、博士は苦笑いで応える。
「それは、わしの台詞なのではないかね。 これが完成して一番よろこんでいるのは、わしよりあんたたちかもしれん。」
 博士の言葉に、一番年かさの男が、わざとらしく恐縮してみせる。
「われわれは、博士の研究者としての情熱に、感謝とお祝いを述べているのです。」
「一度も世間から、科学者として評価されることのなかった私には、勿体の無い賛辞だよ。 まあ、本音がどうであれ、めでたいことに違いは無い。 わしはこれが完成して満足だし、あんたたちはこれが使えれば満足なのだろう。」
「さすがは博士。 話が早くて助かります。 さっそく、説明していただけますか。」
 博士は椅子から立ち上がると、鼻息あらく机の上のフラスコを指差した。
「すごいものができたぞ。 これは消化器官をもつ生物なら どのような動物でも死に至らしめ、一切の証拠を残さない究極の毒薬だ。」
 男達の間から、おぉ、と感嘆の息がもれる。 ひとつ咳払いして、博士は続けた。
「感染後、24時間以内に宿主を殺害し、その後1時間足らずで自己分解し、一切の痕跡を残さない。たった一単位摂取すれば、血液中で、毒殺に必要な量の自己増殖を行う。 感染も、経口感染のみに特定した。 どうだ、バカなお仲間が間違っておっ死ぬこともなかろう。 」
 年かさの男は目を輝かせて言った。
「すばらしい。 して、その毒は、ウィルスなのですか。」
「ウィルスと呼ぶべきだが、病原体の類ではないし、劇薬の類でもない。 超微細なナノマシンだ。 乾燥した空気の中では全く無害なたんぱく質に過ぎないが、毒殺をプログラムした上で胃に取り込んでしまえば、最強の毒薬となる。 従来の検死ではまず見つかりようもないが、自己分解の機能により、感染者の死後、死因を特定することはまず不可能だろう。 使用の際には、注射器でたった一滴、飲み物に混ぜるだけで良い。」
「温度や、湿度など、弱点はないのでしょうか。 簡単な予防策をつけていただけるように、依頼させて頂いたはずですが」
「よほどの高温・低温環境下でもなければ、ウィルスが自然に死滅することはない。 また、人体に取り込まれずに眠っている状態でも、ウィルスのついた手で直に触れたものがあれば、それを媒体として、人の手を渡ってゆくこともあるだろう。 故に、万が一とはいえ、漏洩した時に予防の術が無ければ、毒を扱う者にとっては致命的だ。 もちろん手は打ってある。 特効薬の類はないが、このナノ・ウィルスは、活動前であれば、界面活性剤によりその働きを停止する。 つまりは、直に触れても手洗いさえきちんと行えば、死なずに済むというわけだな。 まあ、手洗いすら忘れるバカであれば、その日の眠りは、いつになく深いものになるだろうが。」
 博士がコンソールを操作すると、壁にかけた大型のディスプレイに、ウィルスの正体が映し出された。 クモのような形状をした超微細の殺人機械を、年かさの男は自らの愛玩動物のように愛しげに見つめた。 これから、この機械には忙しく働いてもらうことになるだろう。
「さすがはティー博士、すばらしい成果だ。 」
「いやなに、礼には及ばない。 君たちが潤沢な研究資金を用意してくれたおかげだよ。 このうえ謝礼まで用意していただけるのだからな、言われた成果をだすのは当然のことだ。」

 ティー博士の作ったナノ・ウィルスは、その日のうちに量産体勢に入った。 博士に究極の毒薬の開発を持ちかけたのは、国家転覆を目論む悪の地下組織だったのだ。
 1週間後、時の首脳陣が、次々と不明の死を遂げた。 連日、ニュースは世間を賑わわせているが、陰謀による毒殺などと取り上げているのはタブロイド紙だけだ。 捜査機関も、やはり死の正体を発見することは出来ず、みな、病死と断定された。
 成果の代償は、山積みの現金だった。 桁を数えるのが面倒になるほどの大金である。
博士が十年の長きに渡り、寝食を共にした組織の研究室を後にする際、歳かさの黒服は揉み手をして、博士の苦労をねぎらった。
「博士、報酬は、すでに博士のご自宅に運び終えています。 博士のご意向どおり、主要各国の通貨で、均等に、両替済みですよ。」
「なにからなにまで、世話になるな」
「こちらこそ、またお世話になることもあると存じますが、その際にはよろしくお願いします。」
「ああ、そのときがくればまた、よろしくたのむよ。」


 かくして博士は、十年ぶりの我が家へと帰ってきた。
 十年もの間、手入れのされていない門をくぐる。 廃屋と呼んでも誰も疑わないであろう家屋は、壁の白いペンキがあちこち剥がれて灰色の素肌を見せており、ドアは朽ち果てる寸前といった様子だ。
カギを開き、ゆっくりと室内に入る。 と、博士の脳裏には、今はもう聞えない、帰宅を敬う声が聞えた気がした。 白みがかった室内は黴と埃に満ちていたが、その空気は、十年前まで、絶望を満たしていた空気とは思えないほどに心を休ませた。

 ティー博士は、自宅地下の研究室へと向かった。
電灯をともした研究室の壁には、抱えきれぬほど大きなトランクケースが、ずらりと列を成して並んでいる。 どれかひとつのトランクを手に、今すぐに海外へと旅立っても、長い間、不自由なく暮らせるほどの大金だ。
 淡々とした様子の博士は、トランクの脇をするりと通り抜けると、埃の積もった研究設備を稼動させた。
 彼の悲願は、毒薬を作り出すことだ。 十年もの間、それだけを心の拠り所にしてきた。 目的は、救済である。 科学を金儲けの道具としか考えず、過った道へと進ませる悪意からの――自分から家族を奪い去った、資本主義という名の悪魔からの救済だ。
この暴走する悪魔が地球を破壊し尽くす前に、それを制する、より強力な毒薬を完成させることが、博士の悲願であった。

 博士は乱暴な手つきで次々にトランク開くと、取り出した大量の紙幣を、ナノ・ウィルスの塗布設備にセットした。 塗布するウィルスは、組織に渡したウィルスとは違い、手洗いを敢行しても予防する事のできない、究極の毒薬だ。
「ああ・・・やっと完成だ。 長かった。」
カット紙がコピー機に吸い込まれるようにして、紙幣が一枚、また一枚と機械を潜り抜けていく。
ティー博士は焦点の定まらない瞳で、穏やかに、目に見えない毒薬を眺めていた。





2010.02.28 Update.

  


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