『 ドレスコード 』
―――――――――――――――――――――――――――――
『ちょっと仕事長引きそう。 悪い、また今度でお願い』
約束の時間を40分もオーバーして、やっと届いたメッセージは『また今度でお願い』だった。
3週間ぶりの約束だったというのに、結局こうなるんだなぁ。
ウェイターの視線を気にしながら返事のメールを打って、そっとため息をつく。
『いいよ。 また今度ね。』
ちょっと予算高めの店を選んだだけに、落胆も大きい。
こんなことならコース料理なんか頼まずに、駅近くの居酒屋で良かったのになと思うけれど、
これも今に始まった事ではない。 いい加減学習すべきなのは私の方なのかも。
思えば、今月に入ってからは一度も良治と会っていない。
9月のシルバーウィークも結局一緒には過ごせなかったし、明けてからは仕事以外の話題が出てこない。
『忙しくってさ。』
そう言ってすっぽかされるのも慣れてきたけど、やっぱり面と向かったら思いっきり文句を言ってしまうだろう。
そうならない為のメールは良治の作戦かもしれないけれど、
そっちがそのつもりなら、私にも、そうならない為の作戦があるのだ。
送信完了の表示が消えると、電話帳のメモリーから名前を呼び出す。
考えるまでもなく通話ボタンを押す。
あいつだったら、きっとくる。
コールは3度目で、聞きなれた声に変わった。
『もしもし?』
「もしもし。」
『おー、奈緒久しぶり。 どったの?』
電話の声の後ろには、ザワザワと人ごみのような雑音が混じっていた。
「もう、仕事終わった?」
『ああ、さっき終わったトコ。 今かえりみち。』
「ご飯食べない?」
『……』
「…ちょっと?」
『…… お前、さてはまた良治にすっぽかされたんだろ。』
「…う、うるさいなぁ。 来るの、来ないの。」
図星? 図星? と笑った後で、隆は。
『行くよ。 場所どこよ?』
と、いつもの返事をくれた。
その声のふわりとした暖かい響きを聞いて、
イライラとした気持ちが落ち着いてゆくのを感じる。
私はほっとして言う。
「そう言うと思った。」
すぐ行くと言ったとおり、そいつは5分も待たせずに店に現れた。
店内をじろじろ眺めて発した第一声は。
「何、お前らいつもこんな高そうな店で飲んでんの?」
だった。
「そんな訳ないでしょ。 今日は、ホラ、3周年記念日だとか…そういう。」
他人事のように白々しく言うつもりが、やはりそういうわけにもいかずゴニョゴニョと語尾が濁る。
隆はふーんと鼻をならして軽く返す。
「ああ、そういう。」
それに、少し救われた気がした。
「うん、そういう。」
いっつも椅子に座るときには「よっこいしょ」と言うのが口癖なのに、さすがにウェイターの引いた椅子に座る時には
言わないらしい。
かっちりとスーツを着込んだ隆は、普段着の時とは全然別人みたいに見える。
私の考えている事に気がついたのか、隆はちょっと困ったような笑顔を浮かべた。
ウェイターが離れたあとで、声を落として言う。
「ドレスコードあるなら言ってくんねーとわかんねーって。 家ついてなくてよかったよ、ホント。」
たしかに。 いつもはもっとシルエットの太いジーンズに、上はスウェットで、
それをダウンジャケットで隠しているだけの格好だったりするのだ。
目の前の、きちんとした身なりの(分け目までつくってる)隆を見ると、
思い出すだけでなんだか可笑しい。
「ぷぷっ、ゴメンたしかに言い忘れた。 スマートカジュアルっていうより、隆の普段着は『セミ寝起き』って感じだもんね。」
「うっせーな。 俺の正装をバカにすんなよ。」
隆も文句を言いつつ、笑う。
その笑顔に、一瞬思考が停止しそうになる。
隆は、良治の親友で、同じ会社に勤めている同僚でもある。
私達3人は高校の時のフォークソング部で一緒だった同級生だ。
毎年常に部員が定員ギリギリで、隆は部長を、良治は副部長をやっていた。
バカだけど面倒見の良い隆と、愛想悪いけどギターの上手い良治と、
ギターは下手くそだけど教師受けの良い(優等生のネコを被った)私。
3人はクラスもバラバラで友達グループも別々だったけれど、放課後の部活では毎日顔を合わせていて、
なんだかんだで、卒業したら連絡の途絶えてしまう友達も多い中、いまだにこうして連絡を取り合っている。
ちょっと違うか。 自主的に連絡を取り合っているわけではない。
隆は自分からは連絡をよこそうとはしない。
それは、高校3年生の時から そうだった。
私と良治が付き合い始めたからだ。
目の前の男は、ソムリエが満たしたばかりのグラスを掲げて、ニヤリと笑う。
垂れ下がった目じりとか、綺麗な歯並びとか、そのへんは昔のまま全然変わらない。
「3周年に乾杯」
「なんであんたが言ってんのよ」
「あと何年続くことやらねぇ」
「ふ、不謹慎!」
軽口を言いあい、乾杯する。
私はそうやって隆が笑うたびに、心に新鮮な風が吹き込んでくるような気持ちになった。
その風は 同時に心の水面にざわざわと波紋を刻むのも、また事実だったけど。
私は動揺を隠そうと、おかわり自由のフランスパンを何度もおかわりした。
お前ちょっと食いすぎ。
そんなことないよ。
よく太らねーよなそれで。
ちゃんと運動してますからね。
ふうん…。
隆は? 会社の野球同好会、ちゃんと続いてる?
最近行けてねえなあ。 忙しくってさ。
ふうん、そうなんだ。
『忙しくってさ。』
良治と同じその台詞を並べて覚えるのは、ずっと昔から感じていた予感。
隆は、ちょっと太ってきたんじゃない?
あー、たぶんな。 そうかも。
メタボはモテないよ?
いいよ。…別にモテなくても。
そして目が合った。
隆は取り繕うように 俺ホラ、痩せたらモテモテだから。
その気になりゃー女なんてよりどりみどりだから。 なんて言って笑いながら、
自分もパンのおかわりをウェイターに注文した。
隆といると、いつも時間があっという間に流れていく。
堅苦しいコースの料理が終わると、駅前の居酒屋で飲みなおそうなんて話になって、
行き先は学生の時から行き着けの居酒屋。
となれば、やきとり。 といえば、焼酎。 隆も量が足りないと言うので、ひととおり頼む。
レストランで食べ過ぎたパンが少し重かったけれど、調子に乗って頼んだ料理を残すわけにもいかず、
芋のお湯割りで流し込む内にすっかり酔っ払ってしまった。
結局、得意の絡み酒も助長して飲みすぎた私は、駅からマンションまでの短い道のりを、
隆に「危なっかしい」なんて言われながら送ってもらう羽目になる。
いつまで経っても、隆はバカだけど面倒見の良い男なのだった。
駅前のロータリーでタクシーを止めた隆は、まず自分がよっこいしょと奥に乗りこむと、
後に続く私のおでこがルーフに当たるのを阻止し、明らかな酔っ払いに露骨に嫌がる運転手をケアし、
私がナビシートの下に落っことした携帯電話を拾い、目的地を告げた。
「途中、星空町2丁の交差点で、一度止まってください。」
私の家までは、一本道だ。 そして、隆の住む街は、その延長線上にある。
「ごめんねぇ」
「いいよ。 慣れてるし。 それよりお前、絶対吐くんじゃねえぞ。」
隆は笑いながら、昔の癖でポンポンと私の髪を叩いた。
はっとして、隆を見る。
隆もはじかれたように手を引いた。
『3周年』
さっきつかった、そんな言葉が頭をよぎる。
たとえそんなささいな癖でも、隆が私に触れようしなくなってから経過したのは同じ時間だ。
「あ・・・ごめん。」
隆は、聞こえないくらいの声でそういって、運転手と野球の話を始めた。
意図的に、いつも隆は私を避けていた。
そして私は、隆に逃げ切られないように できるだけ時間を空けずに今日みたく誘った。
良治のことは、ちゃんと今でも好きだ。
だけれど、私は
その笑顔が、どうしても欲しくなる。
「ねえ隆」
野球の話題がふと途切れた瞬間。 私は彼の名を呼んだ。
口がすべったのは酔いのせいだ。
きっとそうだと、口にするその前から 頭で言い訳を繰り返してる。
「何?」
わたしたちはどこか違う
仲良しの友達とも少し違うし、ただの知り合いでもない。
ましてや恋人は別にいる。
「私がもし、『隆のこと好きだ』って言ったら、隆どうする?」
だけれど、やっぱり私は隆が好きで、
隆もきっと私の事を気にかけてくれているはずだ。
「…お前は、良治の彼女でしょ。」
隆は抑揚のない声でそう言うと、笑顔を見せた。
「俺は、友達を裏切るようなことはしない。 奈緒のこともだよ。」
そういってまた、私の頭をポンポンと叩いた。
「………うん。 そう言うと思った。」
切なさと一緒に胸をよぎったのは、冷えた安堵だった。
返ってくる答えなど、わかっていたのだ。
行き場を失った私の気持ちは、片目からぽろりと零れ落ちて、手の甲に小さな水溜りをつくった。
隆のその表情は、どうしたって言葉とは裏腹な本心を物語っているように思えた。
私達は、長い間うやむやに覆い隠してきた本心を、お互いに知ってしまった。
だけど、隆の心の中には、どうしても優先すべき規定があって、
ドレスコードみたいに、その規定を満足する人じゃなきゃ入れてもらえない。
私がもしも、親友の恋人じゃなかったら……
そんなのは、もう考えるだけ無駄な『もしも』の話だ。
「でも『もしも』そうなら、一番に辛いのは俺でも良治でもなくて、奈緒なんだろうな。」
私は両手で顔を覆った。
彼が裏切ってくれることを、期待していた。
隆はすっかり冗談のノリにもどって、「ゲロじゃないよな?」なんて大袈裟におびえたふりをして。
私は「違うわよ、花粉症よ」なんて無理な言い訳をして。
そうこうしているうちにタクシーは星空町でタイヤを止め、つきましたよ、の声とともに扉は開かれた。
さっきの話は、もしも、だろ?
もしも、よ。
まさかな。
そう、あくまでも仮定の話。 タクシー代、ゴメンね。
いいよ、居酒屋と合わせても、今日のコースじゃおつりが出るから。
うん、まあそうだよね。 じゃまた今度おごってね。
遠慮ねーな。
ちゃんと連れて行ってよね。
わかったよ、…じゃあな。
…うん。
おやすみ。
おやすみなさい。
遠ざかっていくタクシーのテールランプを見送って、私は自宅へ向かって歩き出す。
涙の乾いた両目は、秋の夜のつめたい外気にひんやりと染みた。
『ちゃんと連れて行ってよね。』
『わかったよ、…じゃあな。』
食い下がるように言った最後の言葉に、言わなきゃ良かったと、自己嫌悪する。
もうこんな事、やめたほうがいい。
そう、あたまではとっくに理解しているはずなのに。
…たぶん、明日になったらもっと後悔する事になるのだろう。
きっと、また同じことを繰り返したって。
どれだけ待ったって、隆から連絡がくることはないのだ。
2009.10.04 Update.