『 ガラケーとスマートフォン 』
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西暦2010年は、スマートフォン元年と呼ばれました。
 スマートフォンとは、電話とPDAの機能を兼ね合わせた携帯電話のことを指すらしいのですが、必ずしもそのように定義された言葉ではないらしく、要は高速回線と画面に直に触れて操作するタッチ式のインターフェースを搭載した携帯電話の事だと、ヤマダは理解していました。
 スマートフォンが登場して以降、それまで多機能・最先端といわれていた日本製の携帯電話は、何故か『ガラパゴス携帯』と自嘲的な響きをもって評されるようになり、今では国内のどの通信会社も、スマートフォンの普及を全面に押し出したビジネス戦略を展開しています。
 海外のメーカーが開発し、大ヒットを続けている有名機種などは、今ではヤマダの同僚や、家族も利用しています。 使っている人たちは、インターネットが見れて便利、だとか、アプリがダウンロードできる、だとか、直感的に操作できる、等と使用感については誰しも好評で、ヤマダにもしきりに、『お前もこっちに変えたほうがいいって!』と薦めて来るのでした。

 しかし、当のヤマダは、スマートフォンにはぜんぜん興味がありませんでした。
もっというと、ガラパゴス携帯にも興味がなかったのです。
ヤマダも携帯電話を持ってはいるのですが、彼にはそもそも、さほど携帯電話の必要性が感じられませんでした。
ヤマダには残念ながら、友達がいなかったのです。

 21世紀に入って、約10年が経ち、今では、携帯電話を持たないビジネスマンは非常に珍しいといわれます。
 会社勤めのヤマダも、一応、自宅に固定回線を引く代わりに携帯電話を所有していましたが、彼には定期的に連絡を取る相手もいなければ、メールを送る相手もいませんでした。
滅多に無いことではありますが、会社から突然の連絡を受けたりする程度です。
あとは、母親が「あんたちゃんと食べてるの?」と時々気遣って電話をくれるくらいのものでした。
 メールを打たない等、画面を見る必要がないので、必然的に、ヤマダの持っている携帯電話には、液晶画面がついていません。
彼の携帯電話は、エアコンのリモコンをもう一回り大きくしたような本体に、3列×4行の数字ボタンが並び、その上に、1対の通話・切断ボタンと、3つ並んだメモリボタンだけがついています。
いわゆる『通話専用』とされる、メカに弱い高齢者でも安心の旧式機種でありました。

 友達のいないヤマダではありましたが、3つしかないアドレスメモリーに、誰を登録すべきかについては、さすがに悩みました。
まず思いついたのは実家。 いくらなんでもこれは、忘れることがないので必要ありません。
会社。 3つしか登録できないのに、会社の番号を登録するのは、どうにも納得がいかず、手帳に控える事にしました。
取引先はどうでしょう。 そうですね、3つでは明らかに足りません。 こちらも手帳に別途控えることにしました。
兄弟。 いませんでした。 ヤマダは一人っ子です。

 しかたがないのでヤマダは、3つあるメモリーに、両親の持っているそれぞれの携帯電話番号を登録することにしました。 家族割りのプランに加入しているので、両親にはタダで電話が掛けられるのです。
 ぶっきらぼうなヤマダ父は3番のメモリー、おせっかいなヤマダ母は2番のメモリーに登録をしました。
 1番目のメモリーは、少し気恥ずかしい事ではありますが、ヤマダが片想いをしている、隣の部署のカワミさんのために、空けてあります。

 自分からモーションをかけることのできないヤマダが、人知れず片想いを続けてかれこれ3年。
1番目のメモリーが埋まるタイミングは、思いがけないタイミングでやってきました。
 金曜日の夜、残業でたまたま、カワミさんとふたりになった時の事です。
「ヤマダさん、よかったらアドレス教えてもらえませんか?」
 なんと、カワミさんから、ヤマダのアドレスを聞いてきたのです。 ぎょっとしてヤマダが固まっていると、カワミさんは苦笑いをして言いました。
「週末の――っていっても、もう明日ですね。 花見の件で。 ほらあたし、幹事じゃないですか。 場所取りしたらメールでみなさんに連絡しようと思ったんですけど、あたしカワミさんのアドレスだけ、存じ上げなかったので」
 毎年春になると開かれるフロア合同のお花見は、今年はカワミさんが幹事のひとりだったのです。
ヤマダは毎年断っていましたが、先日カワミさんにふいに「ヤマダさんも来てくださいよ」と誘われて、俄然参加する気になったのでした。
 とにもかくにも、これはチャンスです。 
「あ、いいよ。 でも、ごめん俺の携帯、メールできないんだ。 だからアドレス持ってなくって」
「えっ、ほんとですか?」
 既に携帯電話を取り出して赤外線通信機能を起動し、わたし先に受けていいですか?という表情を浮べていたカワミさんは、ヤマダの言葉に大きな疑問符を浮べました。
「いまどき珍しいですね――って、うわ、ヤマダさん」
 ――そして、おもむろに取り出されたヤマダの携帯電話に、目を見開きました。
「ヤマダさんそれ、『おじいちゃんフォン』じゃないですか!」
 ヤマダの携帯電話は、相変わらずのわらじ型で、リモコンの親戚のような形をしていました。
笑われるのはある程度予測できたリアクションでしたが、カワミさんが思いのほか大きな声で笑うので、ヤマダはさすがに恥ずかしくなってきました。
「ちょ、そんな名前じゃありませんて」
 赤くなるヤマダの否定を聞いてか聞かずか、「あたしのおじいちゃんもこれ使ってますよー」と言って、カワミさんはヤマダに微笑みを向けました。
 だから、『おじいちゃんフォン』。 聞いたことのない呼び方でしたが、カワミさんが言うとその言葉はとても魅力的に聞えました。 ヤマダは笑う彼女を見て、やっぱり美しい人だなあと、思うのでした。
「ヤマダさん、でもそれって不便じゃないですか?」
「いやー、ネットとかメールとか使わないから、これで十分なんだよ。 友達いないし。」
 カワミさんはまた、からからと笑います。
「面白い人ですねー、ヤマダさんて。 知らなかったな」
 ヤマダはクールを装って、いやいや、そんなことないです。 とか言って苦笑いを浮べていましたが、内心は有頂天でした。
「じゃあ、お花見当日は、ヤマダさんにはお電話で場所を連絡させてもらいますね。」


 ――― カワミさんの電話番号を聞いてしまった!!

その事実は、ヤマダを思わずほろりとさせました。 ずっと空っぽだった何かが、突然満たされたような感覚にすこし戸惑いはあったものの、いつになく前向きで清清しい気分でした。
買ったときから空白の一番目のメモリボタンは、今や彼女と話せる直通ラインになったのです。
ヤマダはこれまでの道のりを想い――実際には、何も行動していなかったことにすぐに思いあたりましたが――とにかく、よくやった自分、と、時折人目を気にしつつも スキップして家路につきました。
きっと自分からは、1番のボタンを押すことは出来ないようが気もしていますが、細かい事は今は気になりませんでした。 『おじいちゃんフォン』と呼ばれた携帯電話をその手に握っているだけで、気持ちは舞い上がるのでした。

 駅から自宅のアパートへと向かう道の間には、暗くてそこそこの広さがある、公園があります。
この公園は噴水や遊具などの施設も充実しているのですが、人工河川によるビオトープなどがある為に、外灯があまり設置されておらず、夜になるとちょっとおっかない雰囲気がただよいます。
 公園を一直線に抜ければ、自宅への近道になりますが、ヤマダは警戒して、いつもは迂回して帰宅しています。 朝は静かで清清しい公園ですが、夜は、本当に何かが出ても不思議ではないほど、妙な気配を感じるのでした。
 今夜ばかりは気の大きいヤマダは、踊るような足取りのまま、公園を抜ける帰路を選択しました。

 見上げると空には、息をつくほどにたくさんの星が輝いていました。
涼しくそよぐ風は心地がよく、水の流れを止めた噴水の水面を、ゆったりと揺らしています。
寂とした園内に、春の虫の音(ね)が遠く近く聞えていました。
(ああ、なんて気持ちの良い夜だろう)
 ヤマダが小さな幸せをかみ締めていたその時、突然として、世界が回転しました。

 慣れない妙な歩き方をしていたのも原因でしょう。 足元のレンガ敷きの舗装道で、ひとつだけが角をもたげていたのも原因です。 角につま先を捕らわれたヤマダは、浮べていた笑顔を消す暇もないまま、前のめりに派手に転びました。 “すっころんだ” という表現がぴったりくるほどに、勢いよく転倒しました。
 痛い、と思うよりも先に、頭をよぎった事がありました。
運悪く、ヤマダは噴水の目の前で転んでしまったのです。
 『ポチャン!』という水音(みずおと)が、刻み付けるような残響と共に、ヤマダの耳に残っています。
手をついて身体を起こすと、右手にたしかに持っていたはずの携帯電話がありません。
「ええーっ!!」
 思わず声を上げ、噴水の淵に這い寄ると、水面は大きな波を刻んでいました。 その同心円の中心に、『おじいちゃんフォン』が沈没した事は明らかでした。
 なんということでしょう。 仮想大賞の逆転合格を逆さにするよりも、あからさまなテンションの転落がそこにはありました。
 おじいちゃんフォンには、防水機能はありません。 困り果てたヤマダは、呆然と両膝をついたまま、がっくりとうなだれました。

『もし、もし。 そこの方』
 誰かが呼ぶ声を聞いて、ヤマダはふと顔を上げました。
するとどうでしょう。 既に止まったはずの噴水がドンと大きく水を噴き上げ、その中から、神々しい姿をした女性が現れたのです。
 ヤマダが驚きと恐怖の表情を浮べて後じさると、女性はちょっと申し訳なさそうな表情で言いました。
『そんなに怖がる必要はありません。 私は泉の精です。』
 それはかなり唐突な展開でありました。
「泉の精?」
『そうです。 といっても、大昔にここのもう少し南にあった泉の、ですが。 すこし前に引っ越してきて、今はこの噴水に住んでいます。 登場の仕方が今風でおどいたことでしょうが、怖がる必要はありません。』
 どこか間の抜けた泉の精は、話し振りなどがヤマダ母に似ていて、ヤマダは安心すると同時に、思わず眉をひそめてしまいました。
どうやらオバケや変質者の類ではないようですが、そんなことよりも、携帯電話の大切なメモリーが噴水の底にあるという事実が、ヤマダの心をふさぎました。 
『何かお困りのようですね。 どうされましたか』
 ヤマダの表情に、泉の精は心配そうなまなざしを向けました。
「……携帯電話を落としてしまいました。 とても大切な、携帯電話です。 昨日まではどうでも良いものだったんですが、今日、とても大切なものになったばかりだったのです。」
 肩を落とすヤマダを、泉の精はそっと励ましました。
『それはおかわいそうに。 わかりました。 私が取ってきてあげます。』
 ヤマダはかぶりをふりました。
「いいえ、だいたい落ちたところはわかっています。 あなたのお手を煩わせる必要はありません。」
 スーツの裾をたぐりあげながら、切なく苦笑いを浮べます。
「それに見つかっても、落としたのは防水タイプの携帯ではないんです。 たぶんもう、壊れてしまっています。」
『まあ、まあ。 とりあえずそこで待っていてください。 私は機械にはあまり詳しくありませんが、この噴水は思ったより深いのです。 わたしが取ってきて差し上げます。 すべって転んだりしたら、大変ですから。』
「そうですか? 悪いですね、すみません。」
 ヤマダは泉の精に頭を下げました。 親切な人(精?)で気持ちは嬉しかったですが、突然不幸に塗りつぶされた幸せは簡単にもどってきそうもありませんでした。
『お気になさらず。 ちょっと待ってて下さいね。』
 膝下くらいまでの深さの噴水に、するりと潜ると、泉の精は、手に何かを抱えてすぐに戻ってきました。

 こほんと小さく咳払いして、両手に包んだものを開いて見せます。
『あなたが落としたのは、このガラパゴス携帯ですか?』
 泉の精が取り出したのは、先日発売されたばかりの、スライド式の携帯電話でした。
ガラパゴス携帯と呼ばれる、日本市場で独自の進化を遂げた、最先端技術の携帯電話です。
機種変更するのにも、機種代が高額で思わず尻込みしてしまうほどの有名機種でした。
 ヤマダは、かぶりをふりました。
「いえ、違います。 スライドとかでなく、形はもっとシンプルで、色は白色をしています。」
 正直もののヤマダは、ピカピカのガラパゴス携帯には欲目を見せません。
泉の精は予想した通りの答えに小さく笑みを浮べました。
『そうですか。』
 しかし、ヤマダはというと、いっそう落ち込むばかりで、非常に気の毒です。
「やっぱり自分で取ってきます。 わざわざ潜らなくても、すぐそのあたりなんで…」
『や、まあまあ。 こういう流れになってるんで、もうちょっとお付き合い下さい。』
「はい?」
『とりあえず、もう一回行って来ます。』
「あっ」
 ヤマダが制止する間もなく、泉の精はまたもするっと噴水にもぐっていきました。

『あなたが落としたのは、このスマートフォンではないですか?』
 次に泉の精が開いた手の中には、これもまた最新式のスマートフォンがありました。
赤外線通信や、ワングメント部分受信サービス、FeliCaチップを利用したおサイフケータイなど、ガラパゴス携帯特有の機能にはまだ全面対応していないものの、パソコンと同様の快適なWebブラウジングや、動画や音楽プレーヤーとしても利用することができ、何よりアプリケーションを利用した機能拡張を実現する事の出来る、今話題のガジェットです。
それも、泉の精が持ってきたものは、国内で最も普及している人気機種の、発売したばかりの最新色、白色でした。
「お手間をかけて申し訳ありませんが……これは私の落とした携帯とは違います。 私の携帯電話は、こんな高価なものではありません。」
 ヤマダは申し訳なさそうに言いました。
「何度も潜らせてしまって、すみません。 やっぱり自分で取ります。」
 ヤマダは潜るたびずぶぬれになって出てくる泉の精に非常に気が引けているのでした。
そもそも、自分で取りに行くならちょっとズボンが濡れてしまう程度のものなのです。
ジャケットを脱いで地面に置くと、泉の精は笑顔を消してちょっと切羽詰まった感じで、ひとさし指を立てました。
『ちょっと待ってあと一回、あと一回だけ!』
 そしてまたするりと噴水の水のなかに潜ってゆくのでした。


 ――独自の機能や、綺麗な画質や、ネットや、アプリケーションを利用できる、多機能で高価な端末よりも、ヤマダには、たったひとつの電話番号の方が大切でした。
 電話がかけたいわけではないのです。 きっと、かけられないことはわかっています。
目立ったルックスがあるわけでなく、特技もなく、仕事も十人並みの業績の自分には、手に入れられるものと、そうでないものがあることを、ヤマダは理解していました。
それでも、少し言葉を交わせれば心が踊り、横顔を見ている事ができれば幸せでした。
ずっと、なんて贅沢な事は願いません。 一緒に働いていられる間だけで良いのです。
 自分の人生は、きっと無数にある大同小異の『誰か』の人生と同じです。 彼女を幸せにすることのできる、幸福な誰かの人生とは、別の道を歩くのでしょう。
電話番号ひとつ、手に入れようと、無くそうと、何が変わるわけでもない。 事実はそうでした。
しかし、ひょっとしたら何かが変わるかもしれないと、希望に似た輝きが、心できらりと瞬くのが見えたのです。
 ヤマダは小さく笑いました。
空には変わらず、眩いくらいの、たくさんの星が輝いていました。
『――ありましたよ、ヤマダさん!』
 そのとき、さばーっと勢いよく水面から、泉の精が出てきました。
手には、誰かが『おじいちゃんフォン』と名づけた、旧式の携帯電話が握られていました。
 彼女がスマートフォンだとしたら、自分はきっと『おじいちゃんフォン』だ。 ヤマダは思いました。 それほどに、彼我の距離には埋めがたい世界が隔たっているのだと、静かに確信します。
だからきっと、自分は何かを勘違いしていたのだと。
「…ありがとうございました。 私の携帯電話です。」
 携帯電話を受け取り、ヤマダは泉の精に笑顔でお礼を言いました。
雫をしたたらせる白い電話は、多分もう、使い物にはならないでしょう。
しかし、先ほどまでの悲観は消え、どこか晴れやかな気持ちでした。
泉の精はにこやかな表情を浮かべ、ヤマダを見つめました。
 ――すると、テレビか何かのセレモニーのように、泉の精の背後の噴水が、またも炭酸ガスよろしく噴き上がりました。
『あなたは稀に見る正直者です。 私はあなたの正直な心に感動しました。 このガラケーとスマートフォンも、あなたに差し上げましょう。』
言いながら、泉の精は、さきほどのふたつの携帯電話をヤマダに差し出しました。
先ほどは気が付きませんでしたが、どちらも防水タイプの機種ではないようです。
掌に乗せられたずぶぬれの携帯はいずれも、明らかに使い物にならないだろうと思ったので、ヤマダは正直に言いました。
「いえ、すみません、結構です。」

 ショックを受けた様子の泉の精は、一度でいいからイソップ寓話の『銀の斧 金の斧』的な展開をやってみたかったのだとヤマダに告白し、『このままではオチがつかない』と納得がいかない様子でしたが、寡欲なヤマダはお礼を述べるばかりで、これ以上何かしてもらうのは申し訳ない、とあくまで泉の精の申し出を固辞するのでした。
『わかりました、それではあなたに、目に見えないものを授けます。』
 泉の精は、苦し紛れな様子でそういって、不器用なウィンクを残し、噴水の底へと帰っていきました。
濡れた携帯電話をハンカチでくるみ、ヤマダも帰り路に戻りました。
変わった経験をしたなあ、とどこか得をした気持ちでした。
 明日の花見では、カワミさんの電話に出ることができません。 それを思い出すと、すこし気が重くなりました。 花見会場である隣町の公園は広く、皆が集まる会場にはたどり着けないかもしれません。
しかし、ヤマダは空を見上げると、まあ、なんとかなるだろう、と楽観的に考えることにしました。
朝一番で携帯ショップに駆け込もう、という考えは、浮かんできませんでした。






 翌日、隣町の公園までやってきたヤマダは、入り口から続く満開の桜並木を歩きながら、目を細めました。
今年は何かと自粛ムードが多い中、それでも公園には活気がありました。
『集めたお金の一部は、寄付します。 自粛ムードだっていうけど、飲み会で使うお金は、役に立つんですよ。』
 そう言って微笑んだカワミさんの表情を思い出します。 お花見の実施は、彼女のアイデアでした。
ヤマダは、彼女の元気で前向きなところに惹かれたのです。
桜は、例年と変わらず美しく咲き誇り、天気にも恵まれました。 今日は絶好のお花見日和です。

 会社の顔ぶれを探しながら歩き続けると、公園の中央にある噴水に辿りつきました。
ヤマダは、昨日経験した不思議な出来事をぼんやりと思いました。
まったく別の公園なのに、なんとなくその噴水は、あの泉の精を思い出させるのでした。
 ひとまず噴水を目印にして、しばらく周囲の花見客を目で追ったり、場所取りのロープや、ブルーシートの敷かれたあたりをうろうろと探して歩きましたが、敷地の中はなかなかに広く、見知った顔を見つける事はできませんでした。
 腕時計を見ると、時間はとうに集合時間を過ぎています。
やはり、あてずっぽうに探そうとするのは無理があったのかもしれません。
 今頃、カワミさんは携帯電話に連絡をくれ、自分が出ない事に腹を立てるか、気にも留めずに諦めてしまっているだろうと思いました。
「困ったなあ…」
 困り果てて噴水の淵に腰掛け、思わず苦笑いを浮べると、
突然遠くから、よく知った声が聞えてきました。

「ヤマダさーん!」

 はっとして顔を上げると、少年達がゴムボールを投げ合っている向こう側から、大きく手をふる女性が小走りに走ってくるのが見えました。
カワミさんです。
カワミさんの長い綺麗な髪が、風にゆれていました。
「ヤマダさん! おはようございます! よかったあ、携帯電話が繋がらないから、心配してたんですよ。」
 駆け寄ってきたカワミさんは、Tシャツにワークパンツ姿でした。 バーベキューの準備をしていたところだったのか、両手にはめたままの軍手の指先が、炭で黒くなっていました。
「ごめん。 実は昨日、携帯を水に落としちゃって。」
「ええっ? ああー、それで電話が通じなかったんですね。 何度も電話したんですよ。」
 ヤマダは、嬉しくなりました。 いつも不参加の自分のことです、多分だれも庇ったり、気にかけてくれる事はないだろうと思っていたのです。
「ありがとう。 なんとかなるかと思ったけど、迷子になってたんで助かった。」
 迷子、という言葉にカワミさんは笑って、そのあと、ぐいとヤマダの手を引きました。
「さ、いきましょ。 もう飲み会始まっちゃってますよ。 きっとすごい勢いでお肉がなくなりますから、早く食べましょう!」
 ヤマダはドキリと、心臓が驚くのを感じました。
吹く風が頬に涼しくて、たぶん赤くなっているだろうなあ、と思いました。
カワミさんはもう一方の手で、携帯を取り出し会場のほかの幹事に連絡を取っています。
「カワミです。 ヤマダさん見つけました! これから連れて戻ります」
 彼女が振り向かなくて、よかった。
カワミさんの後頭部には、風に運ばれた花びらのいくつかが、たゆたう髪の上で、ふわふわと揺れています。
それは、ちょっと間抜けで、宝石のように綺麗だとヤマダは思いました。

 ――その時。
「あーっ、危ない!!!」
 噴水を通りすぎる直前、ボール遊びをしていた左前方の少年が、大きな声を上げました。
 少年が思い切りよく投げたハンドボール大のゴムボールが、方向を誤り、前を歩くカワミさんに向かって、飛んできたのです。
片手でヤマダの手を引き、もう一方の手で携帯を掴んでいたカワミさんは、飛んでくるボールを弾くこともできず、側頭にボールの直撃を受けました。
「あっ!!」
 ヤマダの世界は、スローモーションになりました。
大きくバランスを壊したカワミさんが、噴水の淵石の側に大きく身体を傾げます。
カワミさんの両足は噴水の土台のすぐそばにあり、バランスをとる為に、地を踏みなおす事はできません。 コマ送りのようにゆっくり進む目の前の現実に、『このままでは、彼女が転んでしまう。』とヤマダは思いました。 思わず繋いでいた右手を離し、彼女の肩を抱いて支えました。

 その視界の端を、噴水の中央に向かって、放物線を描いて飛んでゆく何かが見えます。
それは、淡いピンク色をした折りたたみ式の携帯です。 軍手をしていたカワミさんの手からするりと抜け出した、彼女の携帯電話でした。
カワミさんは声にならない叫びを上げて、携帯電話に手を伸ばしていました。

 無意識に、ヤマダは行動に出ていました。
 彼女を支えていた手をそっと離すと、噴水の淵に足をかけ、思い切り、力を込めて飛び出しました。
地面の感覚が無くなり、代わりに空を真横に飛んでいる気配がしました。
 体感時間は、どんどんと静止に近づきます。
ぴんと伸ばした右手の先には、ゆっくりと回転しながら、徐々に落下してゆく携帯電話があります。
 あともう少し。 もう少しで、届く――!!
指先がその淵を捉える寸前、ヤマダの五感は、ざぶんという水音と共に、踊る泡の中へと飲み込まれました。



「やっ、ヤマダさんっ、大丈夫ですか?!」
 淵から身を乗り出して呼びかける、カワミさんの声が聞えます。
 浅い水の底に這う噴水用のパイプに、したたかに向こう脛とわき腹を打ったヤマダは、苦痛の表情で起き上がりました。
息ができず、おもわず堰がこぼれます。
 右手には水を滴らせる携帯電話。 なんとか掴み取ることはできましたが、水に浸かるまでに、岸に投げ返す余裕はありませんでした。 やはり防水携帯ではなかったようで、水の浸入した液晶画面は、明かりが消えています。
間に合わなかったか。 がっくりと肩を落として、途中水に浮いた少年のゴムボールを拾いながら淵にに向かって歩き出しました。
途中何度か、足元から吹き上がる噴水にアッパーカットをくらいながも、やっと噴水の淵に近づくと、カワミさんが本当に心配そうに、自分を見つめていることに気がつきました。
「大丈夫ですかっ、怪我していませんか?」
「俺は大丈夫です。 カワミさんこそ、大丈夫? 怪我ない?」
ヤマダはボールの当たったカワミさんを気遣いましたが、ボールが柔らかかったためか、彼女のこめかみはほんのちょっと赤くなっている程度でした。
「あたしは、大丈夫です。  ありがとうございます、ヤマダさんが支えてくれたおかげで、落っこちずにすみました。」
「良かった。」
 噴水の淵をまたぎながら、ヤマダの表情には、自然に笑みがこぼれました。
カワミさんはおもわずポケットからハンカチを取り出しましたが、頭の天辺からつま先までずぶぬれのヤマダの何処を拭けば良いのか、逡巡したひと呼吸のあとで、そっとヤマダの頬をぬぐいました。
 また、心臓がどきりと鼓動を強くします。
「あの、これ、よかったら…使ってください」
「いいの? びしょぬれになっちゃうよ」
「いいです。 あ、良かったらこれも。 まだ、汗拭いてないので」
 カワミさんはTシャツの首に巻いていたタオルも、差し出しました。
「ありがとう。」
 カワミさんの顔に、やっと笑顔が戻ってきました。

「す、すみませーん! 大丈夫ですか」
 二人の所に、ボール遊びをしていた少年ふたりが駆け寄ってきました。
ペコペコと恐縮して頭を下げる少年に、カワミさんはちらとヤマダの方を伺いました。
「大丈夫。 次からは回りに気をつけて遊ぶんだよ。 だよね、カワミさん。」
「はい。」
 ヤマダは少年たちにゴムボールを返しました。
二人は何度も振り返りお辞儀すると、その場から去って行きました。

 携帯電話を救う事が出来なかった事をわびると、カワミさんは陽気に微笑み、
「いいんです。 すみません、私の携帯のために濡れちゃって。 …携帯より、ヤマダさんに怪我がなくてよかったです。」
と笑いました。 そして、
「びっくりした。 ヤマダさんて、すっごい運動神経ですね。 ものすごい反応速度でしたよ」
 ヤマダもクールを装うこともなく、咄嗟だったから。 と、苦笑いを返しました。
 歩くたび靴のなかからはぐちゃぐちゃと音がするし、Tシャツはべったりと身体に貼り付いて心地よくありませんでしたが、隣を歩くカワミさんが嫌そうな顔をしないのが救いでした。

 さあ、と涼しい風が吹き抜けました。
寒くないですか、と彼女が問います。
お日様が温かいので大丈夫、とヤマダは答えました。
みんなびっくりするだろうね、と言うと、
そうですね、でも、からかう人には私が反撃します、とカワミさんは笑いました。
 少し離れた噴水を振り仰ぐと、高く上る噴水の水柱が、日の光を反射して、2度、不器用なウインクをしたかのように光りました。

『それではあなたに、目に見えないものを授けます。』

 泉の精が授けたものは、勇気でしょうか。
それとも、きっかけでしょうか。
ひょっとしたら、彼女はヤマダに何も授けていなかったのかもしれません。
そうだとしても、ヤマダは、泉の精に感謝しました。

 そっと歩みを止め、穏やかな気持ちで、ヤマダは言いました。
「カワミさん。」
 一歩先を歩くカワミさんが、澄んだ瞳で振り向きます。
 風に乗ってやってきた桜が、ふわふわと二人の間を舞いました。

「俺の携帯、カワミさんの番号消えちゃったから… また今度、番号教えもらってもいいですか?」

 カワミさんは笑って、言いました。

「ええ。 私も、ヤマダさんの番号、たぶんダメになっちゃってるとおもうので、また教えて下さいね。」

 飲み会の会場が近づくと、びしょぬれのヤマダを指差して、皆がやんやと騒ぎ立てます。
カワミさんはその一人一人に、自分を助ける為に噴水に落ちたのだと、根気強く反論するのでした。


 その次の休日に、ヤマダとカワミさんは待ち合わせて携帯ショップを訪れ、新しく購入した携帯電話の、それぞれの1番目のメモリーに、お互いの電話番号を登録する事になります。
 この後のヤマダの人生は、図らずも彼の予想を大きく超えて動き出す事になるのですが…
――その話は、またの機会にお話しする事にいたしましょう。


 了



2011.5.22 Update.

  


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(ヤマダの使用している携帯は、2005年に発売されたAUの簡単ケータイS A101Kをモデルにしています。)


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