『 7月22日 』
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 車輌の揺れの変化に気がついたわたしは、目を覚ましました。
 電車の車窓から見た外の景色は真っ暗で、時折、矢のような細長い蛍光灯の光が通り過ぎます。
寝ぼけ頭に一瞬にして血があつまり、焦って思わず立ち上ったものの、時すでに遅し。
終電は今、わたしの実家の最寄駅を通過し、トンネルに差し掛かっています。
 またやってしまった。 わたしは溜息をつき、座席に腰をおろしました。
そういえば、あの日もわたしは、こんな風にして終電で自分の駅を乗り過ごしたのです。
今にして思えば、あれが現実だったのか、酔って見た夢だったのか、定かではないのですが、日付は、はっきりと覚えています。
 ――7月22日。
 今から、ちょうど一年前のことです。


 わたしの降りるべき駅は、下りの終着駅付近なのですが、わたしの駅と、次の駅の間には小高い山があって、線路はその山をトンネルで潜って行くのです。 県境の、あまり開けていない地域ですから、駅前にバスロータリーなどは無く、タクシーも停まってはいません。 道は峠道のように九十九(つづら)折りになっていて、その上 外灯もなく、『酔って乗り過ごしたので一駅歩くか』というわけにはいきません。
真っ暗な山道を、何キロも歩くことになるのです。

 一年前のその日も、わたしは、仕事終りに職場の仲間とお酒を飲んだ後で、帰りは終電を利用しました。
 なかなかに酔っ払っていて、改札機を通る際、定期券があるのに切符を買ってしまったのを覚えています。
「寝てしまうと危ないぞ」、と気がついていても、眠気はどうにもわたしの意識を引きずり込んで、電車はそのままトンネルを抜け、目を覚ました時には、ひと駅を乗り過ごしてしまいました。
 慌てて電車から飛び出したものの、もう上りの電車など無いのは、当然です。
 わたしは一緒に降りた数人の乗客をホームのベンチから見送って、溜息をつきました。
 駅から見ると、周囲は真っ暗でした。 今日は一日日差しが強く、予報でも曇るなんて事は一言も言っていませんでしたが、見上げれば、月が見当たらないくらい厚い雲が空を覆い、あちこちにあるはずの山の輪郭と、空との区別もつかないほどに、ホームの外は黒一色で塗りつぶしたかのようでした。
 わたしは怖くなって、鞄から携帯電話を取り出しました。
「寝過ごしたから迎えに来て」といえば、父はまた怒るだろうなと思いましたが、真っ暗闇の山道を歩いて帰れるわけもなく、小言は覚悟の上でした。
しかし、携帯電話を開き、わたしは頭を抱えました。 なんという偶然か、その昨晩に充電をするのを忘れていたのです。携帯電話には、電池切れの表示が踊っていました。
 これは、まずいと思いました。 『通話』も『メール』もできない。
駅の中をうろついて公衆電話を探しましたが、もともと利用客の少ない駅です。 案の定設置されておらず、駅長室ももう閉じられていて、動いているのはたった二台の自動改札機だけでした。 駅を出てしまったらもう入っては来られないし、しかたなくわたしは、とぼとぼとホームに帰ってきました。

 階段からホームに下りると、さっきわたしが座っていたあたりのベンチに、人が座っていました。
鉄道員ではないようで、グレーのスーツを着ています。
わたしは、「あれ?」と不思議に思いました。 まだ人がいたのかと。
 この駅で終電を降りたのは、わたしだけではありませんでしたが、もうみんな改札を出ていったものと思っていましたから、わたしは正直、誰かがいてくれてほっとしました。
あの人が携帯さえ持っていてくれたなら、家にSOSの電話ができると思ったのです。

 わたしは、その人に近づいていきました。
だんだん顔がはっきり見えてくると、その人は、わたしの父よりも、ちょっと年下くらいのおじさんでした。
優しそうな顔つきの人で、なんだか困ったような表情でしたから、わたしは「もしかして」と話しかける前から不安になってきました。
「もしかして、この人も乗り過ごし組かなあ」と。


「あの、すみません」
 わたしが話かけると、おじさんはこっちを見て、小さな声で答えました。
「あ、はい。」
「あたし、××駅で降りるはずだったんですけど、寝過ごしちゃって。 …その、もし携帯電話を持っていたら、貸していただけませんか?」
 おじさんはなんだかほっとしたような、がっかりしたような顔をして、
「あなたもですか。 実は、私も××駅なんですよ。 しかも慌てて降りたもんだから、携帯を、荷物ごと電車の中に忘れちゃって。」
 わたしは少しがっかりしました。 いえ、本当は『少し』ではありません。
しかし目の前にいるおじさんはわたしより気の毒な境遇でしたので、溜息をつく事も出来ませんでした。
「そうですか…」
「すんません。」
 おじさんはしゅんとして、ご自身は悪くないのにわたしに謝りました。
見た目の印象の通りの、人柄の良さが伝わってきましたので、わたしはおじさんの隣に腰掛けて、世話話をはじめました。

 辺りは相変わらず真っ暗で、曇が晴れるような気配も無く、いくつかの蛍光灯に照らされたホームから見えるものは、目の前を横切って両側に伸びるレールと、その先にぽっかりと口を開けているトンネルだけでした。 今にも雨が降り出しそうな、湿っぽい風が吹いています。
 参ったなあ、と思ってると、わたしを元気付けるような声で、おじさんが言いました。
「お姉さんも災難でしたね。 こんな夜遅くまで、残業ですか?」
「あ、はい。 ・・・いやぁ、遅くなったのは、飲んでたからなんですけど。」
「ははは、終電を過ぎても戻られなかったら、親御さん、心配なさるでしょう。」
「いえー、夜遅いのはいつものことなんで・・・たぶんもう、寝てると思います。」
 言葉の通り、両親はもう夢の中でしょう。 近頃は就寝時間が早くて、わたしが仕事から帰ると家の中までもう真っ暗だったりします。
「おじさんは?」
「私も、残業です。」
 おじさんは右手で自分のうなじに触れて、苦笑いをしました。
「ほんと参りましたよ。 今日――ああ、もう23日になってしまったから、昨日か。 実は息子の誕生日だったんです。 すぐに帰るよって、約束してたんですけど……すぐに帰るどころか帰れなくなっちゃってるっていう、ねえ。 やれやれ。」
 バカですよねえ、と笑うおじさんは、なんとも優しげな雰囲気で、わたしを元気付けるために、気の毒な境遇をあえて笑い話にしているような気がしました。
「これから、どうしましょうか。」
「そうですねえ。 いくら夏とはいえ、外で一晩を過ごすわけにもいきませんから。」
 おじさんはうーんと考えたあとで、やっぱりあれしかないかなあ、と独り言を言いました。
そしてわたしの方を見て、笑顔を浮かべました。
「帰りましょう。 お姉さん、私と一緒に来ませんか?」


 おじさんの言う『帰り道』とは、ホームの下に伸びる線路をひと駅ぶん歩いて、帰るというものでした。
わたしは驚きました。 だって、線路はこのホームから、すぐにトンネルに差し掛かるのです。 外ですらこんなに真っ暗なのに、トンネルの中を歩いて帰るのなんて不可能だと思いました。
「大丈夫ですよ。もう上りの終電はとっくに終わっているし、トンネルの中は意外と電灯が明るいから、足元にさえ気をつけていれば、無事に帰れます。」
「上り電車がもう無いって言っても、回送車とかが走るんじゃないですか?」
 わたしは「危険ですよ」と止めましたが、おじさんは余裕の表情で、電車の車庫はこちら側の終点か、上りのもっと先の駅にあるから、回送車も走らないだろう。 と断定しました。
その妙な自信はどこにあるだろう、とわたしは訝りましたが、おじさんは胸を張って、
「実は、一月前にも同じように終電で寝過ごして、ここから歩いて帰ったんですよ。」
と、苦笑いで言いました。

 普通だったら、着いていこうとは思わないでしょう。 見つかれば警察沙汰になるかもしれませんし。
でもわたしは、その時 本当に途方に暮れて 帰りたい一心でしたし、その時のおじさんがとても頼りになりそうに見えたので、覚悟を決めて、頷きました。
「わかりました、行きましょう。」
 たぶん、酔っていたっというのも、大きな原因だと思います。

 おじさんはニヤッと笑って、ひょいとホームから線路に下りると、後に続くわたしに手を貸してくれました。
わたしの前を歩きながらおじさんは、足元の悪いところを注意してくれたり、危険がないか、つねに周囲に気を配ってくれているようでした。
しかし、真っ暗なトンネルに近づくにつれ、わたしはさすがに怖くなってきました。
「これ、本当に歩いて抜けれるのかなあ」という不安を、思わずこぼしてしまいそうになります。
おじさんはそんなわたしに振り向くと、見透かしたように笑って、
「手、つなぎます?」
そして慌てて、「いや、なんも下心とかないっすよ。 私、既婚者だし。」とおどけました。
 わたしは思わず笑って、おじさんの手を掴んで、頷きました。
温かくて、大きな手を握っていると、わたしは、ふと父を思い出しました。
「入り口はなにも問題ないけど、奥は湧き水が出てたりするから、注意してね。 滑って頭でも打ったら、大変だから。」
「わ、わかりました。」
 そしてわたし達は、一歩ずつ、坑口の上部に『螢見隧道』と扁額が掲げられた真っ暗な闇に、入っていきました。

 後から調べたことですが、このトンネルは全長約1.5キロの長さがあり、今から40年以上も前に造られたものだそうです。
幅は約10メートルということでしたが、わたしには、もっと広く感じました。
 トンネルに入ってすぐは、ほんとうに手探り状態でした。 一歩先がもう見えず、何度も軌道の敷石に足を取られそうになりました。 しかし、時間が経つにつれて、外からだとあんなに真っ暗闇に見えたトンネルの中でも、だんだんと目が慣れてきました。 ところどころに電灯が点いている場所までくると、わたしはもう、暗闇を怖いと感じることはありませんでした。
 トンネルの中は涼しくて、寒いくらいでしたが、あちこちについてる光源の光が、しめった空気のなかにぼんやりと反射して、すごく幻想的に映りました。 耳鳴りを感じるほどの静寂のなかに、普段目にすることのない岩肌のようなトンネルの内部や、足元のレールが青白く浮き上がる様はとても美しく、わたしは、「綺麗だなあ」と思わずつぶやいてしまいました。
アルコールが入っていたから、余計にそう感じたのかもしれません。
 おじさんは「もう大丈夫だね」といってわたしの手を離すと、「綺麗だなあ」と、同じようにつぶやきました。
「すごいですね、なんか映画の中に迷い込んだみたい」
「うん、初めて見たときは、私も同じ事を思ったよ。」
「写真撮りたいけど…携帯動かないしなあ。 もったいない…!」
「多分撮ろうと思っても、映んないと思うよ。 暗すぎて。」
 入る前は『ムカデとかいたらどうしよう…』などと不安に思っていたのに、わたしはすっかり気分が高揚して、気がついたらおじさんを引っ張るようにしてどんどん先を進んでいきました。
「ちょっとお姉さん、少し急ぎすぎじゃない? ちゃんと足元に気をつけてくださいよ。」
「大丈夫ですって。 おじさんも、息子さんが待ってるんだから、急がなきゃ」
おじさんは笑って、手を振りました。
「ほんと、そんなの気にしなくって、いいから。 ちゃんと気をつけて。 たぶんもう、待ってやしないと思いますから。」
 途中、おじさんが言っていたように、壁から水が沸いているところなどもあり、トンネルの中の探り足は、別の世界を冒険しているような、不思議な楽しさがありました。
「スタンド・バイ・ミーみたいですね」
「いや、それを言うならグーニーズでしょ。」
なんて、おじさんと笑いながら進みました。

 たぶん、30分〜40分くらい、歩いたと思います。
わたしたちは、ついにトンネルの出口に到着しました。
トンネルを出ると、それまでの静寂が、虫たちのざわめきと、強い風の音にかき消されました。
 わたしとおじさんは思わず、声をそろえて、「あっ」と声を上げてしまいました。 あんなに雲っていた暗い空が、嘘のようにすっかりと晴れていたのです。 群青色の空には、びっくりするくらいたくさんの星が光っていて、わたしとおじさんはしばらくの間それを眺め、そしてその後で、ハイタッチをして喜び合いました。



 あともう少し歩けば、わたし達の駅だ。
そう思ってまた歩き出そうとした時、突然おじさんが、わたしの手を掴んで、引き止めました。
「いけない」
 どうしたのだろうとおじさんを振り向くと、おじさんは真剣な表情で言います。
「お姉さん、今すぐにそこのフェンスから、線路の外に出た方が良い。」
 フェンスの外の道は、まだ峠道のようになっています、帰るには今来た通りのまま、まっすぐ線路の上を進んだほうが、明らかに早いのです。
わたしは、不思議に思いました。
「ちょっと、おじさん? どうしたんですか。」
 おじさんはさっきまでとは違って、真剣な表情で、わたしの背中を押しました。
蒼白な顔には、焦りが浮かんで見えました。
「いいから、はやく登って…はやく!」
 わたしは合点がいかないまま、自分の肩の位置くらいの高さのフェンスを、よじ登りました。
腕をふんばって片足をかけ、またぐようにしてもう片方の足を越えると、小さくジャンプして地面に飛び降りました。 降りる際に、ヒールの足をひねってしまい、うめきながら振り向くと、何故かおじさんの姿が見当たりません。
 フェンスの向こうはトンネルの入り口が見えているだけで、遮蔽物になるようなものはなにひとつありませんでした。
本当に文字通り、わたしがフェンスを登って、降りるわずかな間に、おじさんは消えてしまいました。

「えっ、何で…」

 わたしが思わずフェンスに駆け寄ろうとしたその時。 目の前のトンネルから、黄色い軌道保守用車輌が音を立てて飛び出し、速度を上げてわたしの目の前を通り過ぎて行きました。

ガタン ゴトン。  ガタン ゴトン。

 わたしは、その場にしりもちをつきました。
――ああ。 あのおじさんは、電車がくることを知っていたのか。
 わたしがたったいま越えたばかりのフェンスの足元には、誰かが供えたであろう花束が、線路から吹く風にゆれていました。
 息を呑むわたしの耳元に、風の音に混じって、「ありがとう、やっと帰れる」という優しい声が、小さく聞こえた気がしました。


 足を怪我したわたしが、車も、電車もないその場所からどうやって家まで帰ったのか、わたしは何故か覚えていないのです。
 翌朝、服を着たままベッドで目を覚ましたわたしは、足の痛みがすっかり引いている事に気がつきました。
身体を起こして思い返すと、昨日の出来事はなんだか現実味が無くて、夢だったのではないかと思いました。
しかし、そんな考えを裏切るように、着ていた服のポケットからは、昨日の日付が刻印された、穴の空いた切符が出てきたのです。





 トンネルを抜けた電車が、ホームへと滑り込み、降車の扉が開きました。
またやってしまった。 そう思いながら、わたしは苦笑いで、一年振りに峠の駅のホームに降り、ベンチに腰掛けました。
電車と、幾人かの乗客がホームを後にすると、静寂があたりを包みました。
駅の外はやはり暗く、いっこうに栄えないものだなあ、と思います。

 このトンネルで、過去に人身事故があったと知ったのは、あの夜から数週間後のことでした。
 今から2年前の7月22日。 このトンネルで、ひとりの男性が保守用車輌にはねられて、お亡くなりになっていました。発見時に身元のわからないご遺体であり、その当時に新聞報道がされていたのです。
 大雨の中 トンネル出口の線路上に倒れていたその男性は、車輌に接触する前から頭を強く打っており、持ち物を何も所持していなかったことから、当時は事件の可能性もふくめて、捜査がされたようです。
 亡くなられた男性が身分証を持っていなかったのは、電車に荷物を忘れてしまったからでしょう。
しきりに、わたしの足元を気にしてくれていたのは、ご自身がトンネルの中で転倒し、怪我をされていたからだったのかもしれません。
あの夜の出来事は本当にあった事で、あのおじさんは、その時に亡くなられた男性だったのでしょうか。

 おじさん、ちゃんと家に帰ることができたかな。
わたしは、寂としたホームを見渡し、誰もいない事に、そっと喜びと安堵を抱きました。
今年は、息子さんのお誕生日に、こんな暗いホームになんかいないよね。
そして、左手で握り返した、温かい大きな手を思い出しながら、携帯電話を取り出しました。

「お父さん? ――あのね、ごめんなさい。 終電で乗り過ごしちゃって、螢見峠まできちゃったの。 お願い、迎えに来てくれない?」

 父の小言を聞きながら見上げた空には、あの夜おじさんと並んで眺めたのと同じ、夏の星空が広がっていました。

 
 



2011.07.22 Update.

  


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※この物語はフィクションです。
線路内に立ち入るなどの危険な行為は、絶対にマネしないで下さい。



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