『 梅雨の日曜日 』
―――――――――――――――――――――――――――――



 
自宅近くの停留所に着く前に、バスは大雨に襲われた。
休日出勤の残業終りで、既に時刻は終電間近だ。
そんな正樹の帰宅を、豪雨はさらに遅くしようと画策しているかのようだ。
 ゆるゆるとたどり着いたバス停から、自宅マンションまでの道程を駆け足で上がると、ドアを開くなり、言った。
「すっげえ振ってる、雨! さつき、洗濯もん入れて!」
 リビングのソファでくつろいでいた11歳の娘は、眉をしかめて言った。
「もうとっくに取り入れたよ」
「ぶ、無事か!」
 洗濯物に駆け寄る正樹を見て、娘はため息をつく。
「大袈裟すぎ。」
 正樹は気を取り直し、振り向いた。 口許に、わずかな緊張が見え隠れする。
「なあ さつき、今日はお父さんと外で晩飯…」
「もう食べた。 今何時だと思ってんの。 開いてるの、牛丼屋かカツ丼屋くらいだよ」

 予測できていた返答だった。
こんな田舎の真夜中では、半径2キロで外食できるのは1丁目にある『かつや』くらいだ。 百も承知である。
「いいじゃないか、たまにはカツ丼も!夜中に食うカツ丼は最高だぞ」
 娘はにべもなく答える。
「こんな雨にまた出かけるの、バカでしょ。 作ったら? 材料なにもないと思うけど」
 冷蔵庫を開いてみる。 目星い物は、卵くらいだった。
作ればなんとか、一食くらいは用意できる。 しかし正樹は、今日はどうしても外で食べたかった。
 今日は、6月の第3日曜日だ。
「俺は、今日どうしてもカツ丼が食べたいんだ」
「だったら一人でいきなよ。 あたしヤだからね。 外食行こうっていきなりメール送ってきたと思ったら、残業だなんて、今日はお父さんの都合で予定狂いっぱなしなんだから。 行くならひとりで行って」
さつきは、「明日から学校なのに夜中に出かけるとか普通言わない」とぼやいて、正樹に冷ややかな視線をぶつける。
 正樹は、強がるように胸をそらすと、宣言した。
「ごめん、今日はお父さんが悪い。 わかった、カツ丼はひとりで食べる」
 車は無い。 バスももう無い。 片道1キロちょっとの道程は、自転車で行くことになる。
 さつきは、おどろいた表情を浮べた。
「本気? ほんとは行く気ないんでしょ」
「男にはな、びしょぬれになってでも カツ丼を食べなくちゃいけないときがあるんだ!」
「行っとくけど、あたしこれ以上引き止めないからね? やめとくっていいなよ、後悔するよ」
 正樹は勢いを止めない。
「俺をナメるな、娘よ!」
「…じゃあ、途中で引き返してくるにジュース一本賭けるよ」
「ほほおう、じゃあ ジュース買いに出かけさせてやる。」
 ちっ、と舌うちして、さつきはそっぽを向いた。
「アホくさ。」
 娘はソファに横になって、手にした携帯ゲーム機にイヤホンを差し込んだ。

 カツ丼屋にたどり着いた正樹は、後悔していた。
同時に安堵もしていた。 娘を連れてきていたら、風邪をひかせていたかもしれない。
濡れ鼠の姿態でカウンターに着くと、『冷たいほうじ茶』が差し出された。
車道の水を吹き飛ばす対向車に濡らされた正樹は、店の空調に凍えそうになりながら、
なんとか「カツ丼の梅をひとつ」と注文をした。

 娘とは、うまく行っているとは言いがたい。
朝から夜まで仕事で、休みの日も仕事で。 親子で過ごす時間はあまりにも少ない。
 正樹は、カウンターについた両手に顔面を埋める。
 母を亡くしてから、娘は変わった。 苛立ちや悲しみを抱えながら、父を頼ろうとはしなくなった。
なんとかしてやりたいが、どうすれば良いかわからなかった。
触れ合おうと頑張った空元気は、いつもそのままの速度で空転し、娘を呆れさせるか、怒らせるか、無視させるだけだった。
 出来上がったばかりの湯気上るカツ丼を、無言でほおばる。 喉に詰まらせて、涙が出た。
 寂しいだなんて、言えるか。 父親である自分が。
 本当なら、見本になるべきなのに、いつも後悔している。
 ちくしょう――佐和子、なんで君が。 俺が代わりになりたかった。

 帰り道の途中で、勢いを増した風に傘を奪われて、正樹はついに、頭の天辺からつま先までびしょ濡れになってしまった。
肌にはりついた服は体温を奪い、ペダルを漕ぐ足は重い。
 今日は何の日だっただろう。 ずいぶん惨めな主賓だと苦笑いがもれる。
その苦笑いさえ、雨に溺れて、咳(しわぶ)きに変わる。

「寒ぃ!超さぶい! さつき、今帰ったぞ」
 やっと自宅に帰り着くと、娘がさきほどの姿勢のまま、ソファに座っていた。
眠そうな表情の娘は、「そ。」と一言いうと、バスタオルと着替えの下着を正樹の手に押し付けるように渡す。
「お風呂、沸かしておいたから。」
「お、おう」
「はやく入っておいでよ。 風邪引くよ。」

 正樹が風呂から上がると、キッチンのテーブルの上に、マグカップに入れられたホットミルクが、置かれていた。
『ジュースのかわり。』 と、一言書かれたメモが、カップの底に敷かれている。
 さつきは、ソファの上で丸くなって眠っていた。
 昔は、『お姫様だっこで布団まで運んでほしい』なんて甘えて、わざとコタツで眠っていた娘。
そっと抱き上げて、自室のベッドへと運んでやる。
その寝顔に、つい笑みがこぼれた。

 くたびれたって、びしょぬれになったって、悪くないと思えた。
 自らの希望は、わずか34キロ。 この小さな手の中に秘められた未来が、今、自分を生かしてくれているのだと実感する。
「お父さん、お酒がよかったな。」
 そうつぶやいて飲み干したホットミルクの味は、懐かしくて、少し涙がでた。


 

2011.06.19 Update.

  


―――――――――――――――――――――――――――――

web拍手 by FC2


BACK TOP