【8】
あの夏から、4ヶ月と半月が経った。
夏を過ぎてからは年末商戦に向けて仕事がさらに忙しくなり、
社名の入った2010年度のカレンダーやら、手帳やらを取引先に配ってやっと一息ついた頃には、
もう、すっかり年の瀬になっていた。
本当に、あっという間の4ヶ月半だった。
携帯電話を開けば、カレンダーの日付は、12月29日を表示している。
「浜田よー、新年会まで待てないか? ん? 今晩、俺とのみにいくか?」
会社の納会が無いと年を締められねえ、と息巻いていた与田係長が、
結局みんなに断られたのか、定時前になって、犬っぽい上目遣いで擦り寄ってきた。
部の忘年会は無しにして、新年会にしようと決まったのは、今月頭のことだ。
係長はいたくそれが心残りらしかった。
「えっ、なんすか。 与田さん、こないだ課長を誘ってたじゃないですか。」
「課長は子供が熱だしたとかで今朝いきなりドタキャンだ。」
「じゃあ部長は…」
与田さんは部長席を気にして声を落とした。
「知ってるだろう、部長は締めのラーメンが食べれないと機嫌が悪くなる。 2人だと、ラーメンでいいや、ってなっちゃうだろうが。」
「まあ、そりゃそっすね…」
「それに出来れば上司ではなく部下を労いたい。 気安く呼べるやつは、頑張り屋さんのお前くらいしかいないんだ。」
やっぱり、他の人たちには断られたんだな。
僕は朝からずっと外を回っていたので、声をかけられるタイミングが一番遅かったのだろう。
周りを見回すと、みんな与田さんとは目を合わせないようにそそくさとPCの画面に目を細めたり、
手元にもってる資料の数字を何でも良いから電卓で足してたりと、露骨に倦厭している。
それはある意味懸命な判断だと思う。 係長職以上で独身はうちの支社じゃ与田係長だけなので、
参加する人間には、与田係長の一夜限りの妻となって、そのルサンチマンを全て受け止める包容力が必要だ。
僕はすこし係長の事が気の毒に思えたが、彼の目を見て、はっきりと答えた。
「そう言って頂けるのはとてもうれしいのですが、僕は今日は、外せない先約がありまして。」
いきなりきりりとした敬語を使い始めた僕に、与田係長は目を見開いた。
「何、おまっ、商事部のジェダイ・マスターと呼ばれた俺様の誘いを断るのか…!? パダワンのくせに!」
そんな風に呼ばれてるの、聞いたことないですよ。
「すみません、また次回誘ってください。 (パダワンじゃねーし。)」
ぺこりとお辞儀したところで、終業のチャイムがなった。
今日は年末の最終営業日のため、部長と課長に年末の挨拶をして、それぞれ散り散りに帰ってゆく。
挨拶を済ませた僕を、与田係長は「浜田」と呼び止めた。
小指を横に立てて、
「まさかお前、コレじゃないだろうな。」
とすごい威圧的な表情でこっちを見てくる。
僕はにっこりと笑って、会釈した。
「まさか。そんなわけないじゃないですか。 お先に失礼致します。 与田さんも、どうぞよいお年をお迎え下さい。」
粉雪が降り始めたオフィス街を、革靴にスーツのまま走る。
吐く息は白く、街路樹に彩られた電飾が、キラキラとまぶしい。
僕は約束したレストランまでの距離を、滑らないように気をつけながら、全速力で走った。
吹き付ける風は、コートとマフラーに包まれていてもなお寒い。
やがて待ち合わせのレストランが見えてきた。
その入り口で、僕を待ってくれている女性の姿も。
「ごめん! 駒井、待った?」
待ち合わせの時刻は15分も前だ。
駒井優子は白い息で「今来たトコ」と笑ったけれど、その鼻のてっぺんや耳はすっかり赤くなっていて、
ずっと待っていたことはすぐわかる。
「入って待っててくれればよかったのに。 寒いなー!ごめん、待たせた。 入ろう」
「今来たところだってば。」
「わかったよ。 いいからいいから。」
扉を開いて、彼女を促す。
暖かい店内で一息つくと、メニューを開いてそれぞれ好きなものを注文した。
「結構、いい雰囲気だね。」
店内を見渡して、優子が言う。
「うん、そうだな。 これなら広さも十分だし、 店員の受け答えも良いし。 あとは料理だな。」
僕たちは結婚式の2次会に使う会場の下見に来たのだ。
…といっても、僕たちが結婚するわけではない。 結婚するのは共通の友人の、
テニスサークルで同級生だった白木だった。
僕たちは奴の結婚式の2次会の幹事として、新婦側の幹事には会場選びの段階から丸投げされる羽目になったのだった。
白木はできちゃった結婚だった。
事態が発覚したこの夏に、慌てて両親に挨拶に行き、半ば強引に入籍したのだが、
奥さんが妊娠を隠していた事もあって、その時点で妊娠4ヶ月だったらしい。
すぐに式を挙げてしまえばよかったのに、いろいろな事情であっという間に妊娠8ヶ月を過ぎてしまい、
身体への負担を考えて、ひとまず式は出産が終わってからという事になったのだそうだ。
最初は慌てていた僕たちも、二転三転する話に翻弄され、やっと決まった連絡を受けたのがつい先月の事。
結局式はまだまだ先になってしまったが、こうなったらうんと盛り上げよう、という事で、
会場のめぼしをつけていた計画を白紙に戻して、いちから準備し直していた。
今日も白木と三人で食事する予定だったのだが、予定日よりかなり早くに奥さんが産気づいたらしく、今日は奥さんの地元の新潟に飛んで帰って、お産に付き添っている。
まだ36週だと聞いて心配していたが、昼ごろ「無事生まれた」という連絡があったので一安心した。
本当に、予定通りに行かない夫婦だな。
2人で笑い合っていると、優子がふと真顔になって言った。
「そういえば…白木だけに白木屋でやるという案もあったよね。」
「無茶だろ、それは。」
優子が、夏に連絡を寄こしたのは、この結婚式の幹事の件だった。
余計な気を利かした白木が、どうしても僕たち2人にやってほしいと頼み込んだらしい。
当時は僕は一言も、直接本人から話を聞いてなかったのだけれど。
結局式もずいぶん先になってしまったが、近頃なんだかんだでこうして2人で食事したりする事が多かった。
何を話したらよいのかわからない小さな沈黙を追い払うように、優子が僕を呼んだ。
「年末年始は、どうしてるの?」
「実家に帰るよ。」
「えっ、あ、そうなんだ…明日から? 全部帰るの?」
「うん。 4日から仕事だから、次戻ってくるのは3日の夜中だな。」
「…あのね、まもちゃん」
すこし意味深な視線で僕の方を見る。 すこし、焦ったような色が見えた。
「ごめんね。 本当は私ね、損したなあって思ってるの。 最近、すごく考えるんだ。 あの時、私達が別れないで付き合っていたらって。 そしたら白木くんの奥さんの投げたブーケを私が受け取って、あなたに見せ付けるの。 『結婚してくれる?』って。」
僕は、わざとらしくひとつ咳払いして、彼女を制した。
「駒井。 悪いけど、その話はするつもりない。 嫌味にとってほしくないけど、今の俺がいるのは、駒井のおかげだと思ってる。 でもね、もうそんな『もしも』の話したくないんだ。 わかってるでしょ、俺もう駒井の事を、恋愛の対象としてみる事はあり得ないから。 空しいだけだよ。」
乱暴になりそうな言葉は飲み込んで、僕はできるだけ優しい笑みを浮かべた。
“あの時わかれていなきゃ、きっと俺はもっと早くにあんたに結婚を申し込んでるよ。”
“大体あんたの、誰でもキープしておきたいみたいな考えは、大嫌いなんだよね。”
本心を言うことは、もはや僕にとってはとても簡単な事だった。
だけどそうしないのは、友達としての彼女を気遣っているからだ。
彼女は、露骨に怖い顔をしていたけれど。
優子は、僕の携帯のアドレスをメモリーから消していた。
夏になって白木から幹事の話を持ちかけられ、その時に、
昔っからかわらない僕のアドレスと番号を、白木から聞いたのだそうだ。
6年前の夏。 夕暮れの電車の中で、いや、本当はそれよりもっと以前から、
彼女の中で僕の事は消去されていたのかもしれない。
そうだというのに、今年の始めに年賀状を送ってきたのは、僕とヨリを戻したかったからだと、彼女は言った。
カツラギという旦那と別れて、旧姓の駒井に戻ったのは秋の終わりの事だ。
幹事の話も、ここへくるまでに、何度もメールで微妙な文章が送られてきたり、
出し物の打ち合わせや店のチョイスに顔を合わせる度、カッコよくなっただの、別れなければよかっただのと言ってきたり、
歩いている僕の腕に自分の腕を絡めてきたりした。
そんな彼女を、以前の僕なら胸をドキドキいわせて見ていたことだろう。
今の僕は、何とも思うことはなかった。 むしろ、余計に心が冷えていくばかりだった。
それはそれで切ないな思ったりもしたけれど、やっと、この初恋を吹っ切ることが出来たという事なのかもしれない。
たとえここで彼女が泣いたって、僕は料理を食べて、お勘定を済ませ、店を後にすることができる。
悲しいけれど。
「…俺と駒井は、もうただの友達だよ。 それ以上はナシ。」
注文した料理が2人の目の前に置かれて、僕は「食べよう」と彼女に微笑みかけた。
彼女の中で、僕は今でも、数ある替え玉のうちのひとつなのだろう。
それでも、僕は優子に感謝していた。
優子に振られた夏、人生が終わってしまったような絶望を味わったけれど、
あの恋にも、きっと意味はあったのだと思う。
優子に振り向いてほしい一心で、僕は自分を高めることができたし、
何より、人を好きになることの幸せと、不幸を経験することができたのだから。
駒井と駅前で別れた僕は、携帯電話で実家に電話を入れた。
「今年の年末年始は、実家ですごすから」
突然の連絡に、おふくろは悲鳴のような声を上げた。
『また急に言うんだから。 前もって言っておいてっていつも言ってるでしょう。
やっと買い物全部すませてきたのに。 おそばだって、お父さんと私の分しか買ってないわよ。』
「とにかく、明日帰るから。」
電話を切って、改札を通りぬける。
明日の朝一番の新幹線で、僕は実家への帰路につく。
三関美歩。
ホームに吹く 粉雪まじりの向かい風に目を閉じて、まぶたの闇に彼女の横顔を思い浮かべた。
6年前の夏の彼女の笑顔を。
『勇気を出して告白したけど、無かった事にされた。 他に好きな人がいるから、って。』
『最低のアホだ、そいつ。 無かったことにするなんて。』
僕の言葉を聞いた三関は、哀しそうな苦笑いだった。
『私は、結果としては助かったと思っているけどね』
『なんでお前、そんなに割り切れんだよ。』
『なんでだろうね…』
何故かは、今ならよくわかる。 それは、彼女がずっと『友達』であろうとしたからだ。
そして、そんな彼女を僕は2度も泣かせた。
今はただ会いたい。
会って、夏の終わりの出来事を謝りたい。
【9】
お昼に実家に到着した僕を待っていたのは、
ハチのための全力疾走の散歩だった。
荷物を二階の自分の部屋に置いて、仏壇に手を合わせたら、
ハチが待ちかねたように家の中まで僕を追いかけてきたのだ。
「わかったよ、わかった。 連れてくから。」
そう言ってつきあってやらないと、トイレまで着いてきそうな勢いだった。
スニーカーをはいて、ハチのリードを握り、僕たちは走りだした。
この4ヶ月間、三関の事を考えないことはなかった。
今まで一度だって彼女を恋人にしたいなんて、思ったことなかったのに。
夏の終わりに告白されたときも、僕たちが恋人として付き合ってる様子なんて、ちっとも想像がつかなかったのに。
僕はずっと彼女の事が気がかりでしかたなかった。
今思えば、僕が駒井優子に振られて泣き喚いたあの夏の終わりに、僕は三関に恋をしたのかもしれなかった。
冗談にみせかけたプロポーズを、叶いやしないだろうと僕に告げた彼女の表情を、
僕は忘れることができなかったのだ。
なんて自分勝手なのだろうと、自分でも可笑しく思ってしまうけれど。
ハチの全力疾走で、いつもの河川敷につくころには、すっかり息が上がっていた。
「や、やっと着いた。 …早いよ、ハチ。」
ぜいぜい肩で息しながら、土手の階段を降りる。
そこは、夏に花火をしたあの場所だった。
彼女は、僕の事など、もうどうでも良いと思っているかもしれない。
4ヶ月半も何の連絡も寄こさないで、いきなり目の前に現れて『好き』だなんて、虫が良すぎるだろう。
正直、彼女に嫌われていたら僕は参るだろうと思う。
でも、それで諦めるほど、僕の心は潔い構造にはなっていないのだ。 生憎ながら。
「ワン!」
一服を終えると、ハチが僕の足元に捨てられたゴミ入りのビニール袋を咥えて持ってきた。
僕は苦笑いをこらえきれずに、しゃがみこんでその額をなでてやった。
「よくみりゃ、結構ちらかってるな。 掃除でもしようか、ハチ。」
「ワン!」
吸い終えたたばこの吸殻をゴミ袋に入れて、
来ていたブルゾンを脱いでベルトのように腰に巻くと、僕は腕まくりをして、辺りに落ちているゴミを拾い始めた。
帰ったら、三関に電話をかけよう。
そして、会いたいって言うんだ。
会って、ゴメンって謝ろう。
――で、こんどはこっちから、好きだって伝えよう。
あらかた片付いて、一息つこうと近くの自販機でスポーツドリンクを買ってきて、集めたゴミをまとめていたとき。
ワンワン、とハチの鳴く声が聞えて、僕は顔を上げた。
すこし遠くにいるハチが、しきりに吼えていた。
うれしそうにしっぽを振って。
まさか、と僕が振り向いた土手の上には―――三関がいた。
「…!」
彼女は僕を見つけると、あっ、とおどろいた顔をして、肩をびくつかせた。
「…三関」
僕は、胸の中に嵐が吹き荒れるのを感じた。
ジーンズにキャラメル色のライダースジャケットを着た彼女は、いつもと変わらないショートヘアを風に揺らしていた。
そして、ハチが駆け寄ろうとしたのを見るや、慌ててきびすを返して、
ブーツのまま、走り出した。
「三関!!」
思わず名前を呼んで、手元の袋を放り出して、後を追いかける。
しばらくしゃがんでいたので思わずもつれる足元をなんとか抑えると、低い階段を2段飛ばしで駆け上がる。
「待てよ、三関!」
テレビドラマなら、ここで僕が彼女を捕まえて…となるはずだろう。
なのに現実の僕は、中学高校と陸上部で、大学じゃテニス部員だったくせに、
今やブーツを履いている彼女にも追いつけないでいた。
一度は届きそうになったのに、100メートルほど走ったあたりでそれ以上近づけなくなって、
全力で足を繰り出しているのに、徐々に彼女の背中が遠ざかっていく。
(っていうか、あいつどんだけ足速いんだよ!!)
僕はすっかり上がった息で悪態をつくと、今に僕を追い抜かんとしている傍らの愛犬に指示を出した。
「ハチ、三関を止めて来い!」
「ワンッ」
リードの巻き取りスイッチをフリーにすると、ハチは驚くべき速度で僕を追い抜いて行き、
うれしさいっぱいに、思い切り彼女の背中に飛びついた。
ギャーという悲鳴を上げて、三関は前のめりに派手に転んだ。
そのまま、芝生の土手をごろごろと転がっていく。
僕はその様子を見ながら、戦慄に似た寒気を覚えた。
…我が愛犬ながら、なんて狼じみた奴なんだ。
「はぁっ、はぁっ、ちょ、ちょっと、待って、ハチ! く、くすぐったいってば!」
思いっきり転ばされた上に、誉めて誉めてと擦り寄るハチに、三関は引きつった笑顔を浮かべて後ずさった。
なんとかやっと追いついてきた僕が、すぐ傍らで膝をつく。
「はぁ、はぁ―――だ、大丈夫か?」
三関は答えなかった。
「………あっ」
その顔を見ようとして、僕は、彼女が泣いていることに気がついた。
彼女は、すぐに明後日の方向を見て僕から顔を隠した。
「三関…泣いてるのか?」
「泣いてない。 …なん、なんでここにいるんだよ、浜田。」
「帰ってきたからだよ。 あすこ掃除したら、お前に電話しようと思ってた。」
「………なんで。」
「会いたかったから。」
ハチが彼女にあんまりにもまとわりついているので、僕はハチ、と愛犬の名前呼んで、
「煙草吸うぞ」とジェスチャーつきで呼びかけた。
ハチは不服そうにワンと吼えて反抗したけれど、僕がそれとなくポケットからビーフジャーキーをちらつかせると、
露骨に態度を変えて三関から離れていった。
「…おまえこそさ、なんで逃げたんだよ。」
僕は正直息が上がっていてそれどころではなかったが、とりあえず煙草をケースから取り出して一本咥えた。
「気まずいからに決まってるだろ。」
鼻をならしながら言った彼女の低い声に、僕は思わず「だよね」と言ってしまいそうだった。
何をわかりきった事を聞いてるんだ。僕は。
「逃げることないじゃん。 俺達、友達だろ。」
違う、こんな事が言いたいんじゃないのに。
さっきまでの静かな気持ちから、僕の現在位置は遠く離れてしまった。
何を言っていいのかわからずに、事態をややこしくしている。
「友達ね…」
三関は僕の顔を見た。
ぽろりとひとつ涙をこぼして、かすれた声で。
「友達でいるの、やっぱり辛くなっちゃったよ。」
しゃがみこんで少女のように泣く三関に、僕はさっきかってきたスポーツドリンクを差し出した。
ペットボトルなので、上から叩きつけてフタを取る必要はない。
ひとひねりでキャップを空けて、彼女の横顔に差し出した。
「これ飲んで、ちょっと落ち着いて。」
おずおずと受け取ると、三関はひとくち飲んだ。
それで喉が渇いていたのを思い出したのか、ちびちびと続けて飲む。
お昼すぎの風が、汗をかいた僕の頭を冷やす。
顔を隠す彼女の隣に座り直すと、僕は静かな声で言った。
「まず、謝らせて。」
「…何を?」
「夏のこと――」
「謝る必要なんか、ないよ。」
「いや、あるよ。 ゴメン、俺ってほんと、自分勝手で、デリカシーのない男なんです。」
彼女の好きな男の事なんて、今まで真剣に気にした事などなかった。
今は、僕の事を嫌いになっていないか、他に好きな人がいたらどうしようとか、そんなことばかり考えている。
「今年と去年と、夏に帰ってきても三関に連絡しなかったことも。 本当は俺、三関とした約束の事、覚えてた。 30になっても恋人いなくて、全然結婚できそうにもなくて、好きになれそうな人もいなかったら、結婚しようって話。 それで、無意識に三関の事意識しちゃって、避けてた。 本当にゴメン。」
「……。」
「26になって、なんだかもう30なんてあっという間なんじゃないかって思えてきて、正直言って、ビビってた。 三関と結婚するのが嫌とか、そういう深い意味じゃないよ。 ただ、三関はそれっきりそんな話しないし、俺の事好きでいてくれたなんて、ゴメン俺、気づいてなかったから、戸惑っちゃって、なんとなくで、避けてたんだ。」
ぐず、と彼女が鼻をならして、こっちを向くのがわかる。
どんな表情しているか、知るのがこわくて、僕は靴紐のほどけたスニーカーに視線を落とした。
「ごめん。 ――…あの、あともうひとつ謝りたくて。 …その、今更何を、って思われるかもしれないけど。」
沈黙が怖くて、でも、彼女の顔を見てきちんと伝えなくちゃいけなくて、
僕は意を決して、顔を上げた。
泣き顔の三関美歩は、とても美しく、愛しく僕の網膜に映った。
「ごめん。俺、三関のこと好きだ。 三関が俺と友達でいるの嫌なら、恋人になるっていうのは、ダメかな。」
うそでしょ、と三関は言った。
また顔を覆って、しくしくと泣いた。
ひょっとして、もう付き合ってる男がいるのか? ドキドキと見守る僕を尻目に、
彼女はまた顔を上げると、ぐびぐびと残っていたスポーツドリンクを飲み干した。
僕はただでさえ喉が渇いているのに、緊張してからからになっていたので、
あっ、と声を出してしまいそうなのを必死に堪えた。
やっと一息つくと、三関は言った。
「…駒井優子は、どうなったの?」
「あれは…なんでもなかったよ。 ホラ、衆院選が近かったから、よくあるあれだよ。 『私の応援している先生が浜田くんの選挙区から出馬するんだけど、よかったら1票入れてくれない?』ってやつ」
しどろもどろになりながら言うと、三関はちょっと笑ったが、
「嘘つかないで。」
と、ぴしゃりといった。
「……ごめん、嘘。 友達の結婚式の二次会の幹事を、一緒にする事になった。 夏にあった電話は、その連絡だったんだ。
結局その話は、来年に延期になっちゃんだんだけど。 秋に旦那と別れたらしくて、以来、幹事の件もあってよく会ってる。 でも、三関に告白されてから、全然駒井の事考えられなくなって。 ……つい昨日も、告白じみた事言われたけど、断ったよ。 本当にもう、あいつのことはふっ切れた。」
正直に言って、これは本当、と念を押した。
三関は、わかった、といって笑った。
晴れやかな、奔放な笑顔。 なつかしい三関の笑顔だった。
「で… 三関さん? えっと、返事は?」
そんなの言うまでもないでしょ、と彼女は笑う。
「30になってもお互い恋人がいなくて、結婚できる気配とかも全然なくて、好きな人もいなかったら、私たち、結婚しようよ。」
そう言った三関は、すっかり、いつもの三関だった。
僕は、目の奥が熱くなった。
彼女は、変わらず僕の事を好きでいてくれたのか。
「30まで待つ必要があるのか? それに俺、好きな人がいるからさ、その時間切れにはひっかからないと思うよ。」
彼女の掌に自分の掌を重ねて、微笑みあう。
赤い顔をする彼女を、僕はたまらなく愛しいと思った。
切なさに満ちた夏が終わり、冬がきて、また新しい年が始まろうとしている。
彼女と過ごす新年が、幸せと笑顔に満ちたものになるようにと、僕は初詣で祈ろう。
『ゆらり』は、年末年始もやっているのだろうか。
僕は、修治くんに笑ってくれてやるための5千円札が、財布にはいっていたかなあと思案して、
思わず笑った。
2009.10.16 Update.