9分
それから後の事は、あまり細かく覚えていない。 今思えば、あの時の社長の言葉が、俺達の戦いに意味を持たせたのだと思う。
順番に指令を繰り返しながら、レスラーとおネエ爺は、それぞれ8分目と9分目で退室した。 正々堂々と戦い、 どちらも、清清しい最後だった。
「あんた達、なかなかイケてたわよ。 惚れちゃう前に退散するわ」
「これ以上は身体が持たねえ。 …負けたよ。 若いの、最後までちゃんと、後悔せんように戦うんだぞ」
フラフラになって去っていく二人を、卓郎と見送った。
ヤツはまだ、汗を滴らせながら我慢を続けている。
「ハヤトくん、あとどれくらい耐えられる」
「それを聞いちゃうのかよ」
思わず笑うと、熱気が肺に入り込んで、少しむせた。
「オレは持ってあと1分だ。 君は?」
「お前が1分経って退場するまでは、我慢するよ」
「ハヤトくん…オレは絶対に、君には負けられないんだよ」
卓郎は真っ赤な顔で、あえぐように言った。
「俺だって、お前には負けたくないよ」
俺はもう、彼の事を好敵手として見ている。 口角を上げて挑発を返してやると、卓郎はかすかにかぶりを振った。
「違うんだ、そうじゃない」
彼は力なく俯き、整った顔を曇らせた。 その声に、焦りが混じる。
「ハヤトくんの願いを聞いた以上、オレは負けられなくなったんだ。」
「何?」
「君は、勝利したら昭美さんとやり直すと言っただろ…? それを認めるわけには、いかないんだよ」
しんとした部屋の中で、ストーブのたてる動作音がやけに大きく聞こえる。
どうして、昭美の名前が、出てくるんだ。 はっとして卓郎の顔を見つめる。 熱の中を彷徨う思考で、思案するよりも早く、俺はその結論に至っていた。
気づかなければ良かったという確信と共に、心に出来たばかりの傷口が、音を立てて裂ける。
「君の彼女は、松岡昭美さんという名前だろ。 君の彼女を…知らない事ではあったけれど、結果的に奪い取ったのは、オレだ。 彼女が持っていた写真を見て、君の事は、最初から気づいてた」
一瞬にして、頭に血が上った。 脳に集まった血液が、逃げ場をなくして視界をぐらぐらと揺らす。
こいつは、俺の心を、かき乱すつもりでデタラメを言っているのではないか。 そうだ、ブラフだ。 そうであってくれ。 そんな俺の願望は、卓郎の目を見て、すぐに叶わないと知った。
これは―――現実だ。
「なんで… どういうことだよ」
「ごめん。」
今日始めて出会い、サウナで10分程度一緒に過ごしただけなのに、旧来の友に裏切られたような絶望が、俺の頭の中を真っ暗に塗りつぶした。
それから卓郎は、バイト先が昭美と同じなのだと言う事、昭美から告白されて、付き合い始めたのだという事、世話焼きで、いつも励ましてくれる昭美に、卓郎も惹かれていたという事を静かに語った。
そして、今まで昭美に恋人がいた事は知らず、今日突然打ち明けられたという事を、複雑な表情で話した。 彼はショックを受けて、このサウナへとやってきたらしい。
彼女は卓郎に打ち明け、「前に付き合っていた人にも、貴方にも、悪い事をしていた。 卓郎が私の事を嫌いになったなら、私は身を引く」と切り出したのだと言う。 卓郎は、彼女を許し、受け止めたそうだ。
――俺には、そんなことはどうでもよかった。 聞きたくなかった。 強引に、もういい、と彼の話を断ち切った。
「信じてくれ。 オレは昭美さんの事、真剣だから。 彼女を幸せにできるか、今は自信がないけど、ハヤトくんに負けて引き裂かれるのだけは、絶対に認めない」
「知るかよ…そんなこと、もう…」
息を飲んだ。 「俺には関係ない」とは言えない。 俺は、彼女とやり直したかった。 いいや、やり直す。 もう一度やり直す事が出来るなら、どんなことでもする。 さっき、そう心に決めたんだ。
「絶対に君に勝って、それを証明してみせる」
自分の願い事なんてもうどうでもいい、と卓郎は言った。 俺にだけは、負けられないんだと言った。
何をヒーローぶってやがるんだ。 人の恋人を奪っておいて何を…。
違う、逆恨みなんかやめろ。 くそ、どうしてこんなことに。
目の奥がドクドクと脈打つ。 止まらない。 頭が痛い。 身体中がだるい。
だが、負けるわけにはいかない。 こいつにだけは、負けられない。
それからはずっと、「黙って耐える」という指令が、交互に繰返された。
12分
壁にもたれる卓郎の呼吸が、小刻みなものに変わった。 凄絶な表情で、それでもまだ耐えている。
お互い、もう、我慢のゲージは底をついていた。 いつ音を上げても、おかしくはなかった。
沸騰しそうな俺の脳では、「俺がリタイアしなければ、こいつ、本当に熱中症になるぞ」という彼を気遣う気持ちと、「死んだってこいつに負けることは許されない」という、彼への憎悪じみた闘争心が、オレンジ色のタオルのようにくるくると廻って、脳溝の内側を跳ね回っている。
なんで、こんなに悲しい戦いになってしまったのだろう。
自分から退いた社長や、限界を見極めたレスラーや、おネエ爺たちのような、清々しい結末があるのだと思っていた。 それは甘い考えだったのだろうか。 こんなことになるなんて、思ってもみなかった。
『勝負あったのぅ』
そのとき、ロウリュの蒸気のように、再び焼けたサウナストーンから、雲のような煙が立ち上った。
空中で渦を巻き、それはサウナ神の姿を形どる。 白い作務衣をまとった老人は、手にした柄杓で、卓郎の横顔を差した。
『卓郎は、気を失った。 熱失神じゃ。 今すぐ外に出してやれ、勝負はここに決した。』
壁に背と頭を預けたまま、卓郎は気を失っていた。
連れ出そうとして肩に触れると、彼は意識を取り戻し、薄い目を開いて抗った。
「まだだ。 オレはまだ耐えられます。 こんなの、屁でもない。 大丈夫だ。」
「ムチャすんな! もう勝負はついたんだよ…!!」
「イヤだ。 認めない! 情けなくっても…往生際が悪くても、認められないんです」
『無駄じゃ。 熱耐は、気を失ったらそこで負け。 健康を害するための遊戯ではない。 お前さんは一刻も早く外へでて、水分補給と安静を取ることが必要じゃ』
卓郎が震える唇を噛む。
『さあ、キブシとやら。 早くそやつを連れ出してやれ。 さもなくば、今ここで願いを告げるのじゃ。 そうすれば、この戦いは本当に終わる』
俺の願い。
サウナ神の声を聞きながら、俺は、昭美の事を思い出していた。
あんたよりもイケメンの彼を見つけたからさ、サヨナラしよう?
もう、その人をずっと好きでいるって、決めたんだ。
ごめんね、非道い女だよね。 こんな私のことなんか、忘れてよ。
あんたには、きっともっと相応しい素敵な人がいつか現れるよ。
酷い言葉を投げかけるとき、彼女の瞳は揺れていた。
わざと嫌われようとしているみたいで、胸が苦しかった。
彼女が戸惑うような瞳をするようになったのは、いつからだ。
「仕事が忙しい」と会う事のできなかった日々は、卓郎と過ごしていたのだろうか。
いつもカラオケで歌っていた ふくろうずの『優しい人』を、唄わなくなった。
誰にも分け隔てなく接して、笑顔が可愛くて、嘘をつくのがへたくそな俺の彼女は、もういない。
願えばもう一度手に入る。
人知を超えた力で、彼女を取り戻す事のできる権利を、俺は得た。
「俺の願い……」
続く言葉を失った俺に、誰かの言葉が、脳裏で響いた。
――人生で、自分で選ぶ事のできる選択肢にはね、二つしかないんだ。 “今のまま続ける”ことと、“別の道を探す”ことだ。
俺の願い。 今の俺の、一番の願いは―――。
枯れた喉を絞り、サウナ神に願いを告げた。
「グラスに一杯の、キンキンに冷えたお水を下さい。 願いはそれだけです。」
願いは、すぐに聞き届けられた。
白煙と共に、目の前に現れた氷水を、俺はそっくりと背を反らせて飲み干した。 乾いた口の中を、痛みにも似た爽快感が通り過ぎ、喉を通って、身体の中心に向かってすべり落ちていく。
身体中の細胞が歓喜に震え、わけもなく泣きたくなった。 冷たい清流が胸を下り過ぎていくとき、心が洗われるような気がした。 とても、晴れやかな気分だった。
「ああ、うまい…! お前も早くここを出ろよ、水が格別にうまいぞ」
弱った卓郎の腕を持ち上げ、自分の肩に掛ける。 力をこめて立ち上がり、よろよろな二人が、へろへろの足取りで扉へと向かった。
「負けた」
汗でギラつく卓郎の頬を、一筋の雫が流れ落ちた。 それ以上水分を使うなよ。 そう笑ってやると、雫はまた次から次と零れた。
『見事な戦いじゃったぞ』
サウナ神の言葉を背後に受けながら、俺たちは外の世界へと一歩を踏み出した。
露天風呂に吹く涼しい夜風が、全身を吹き抜けていく。 その風は、車の窓から差し込んできた冷たい風と、何も変わらないはずなのに、とてもとても、心地よく感じられた。
13分間の戦いは、ここに決着した。
あの日、5人の男達が、サウナルームで我慢比べをした。
ある人は矜持のため。
ある人は金のため。
ある人は若さのため。
ある人は自分を変えるため。
ある人は恋人とよりを戻したいがために、戦った。
結果に得た結論は、『狭いサウナルームでふざけたり、ムチャな我慢くらべはしてはいけない』という事だ。
ほんとうに、熱中症になりかけた。
あの日、社長が言った言葉は、今も俺の胸の中にある。
昭美は、別の道を選び、俺はまだ、今のところ同じ道を歩き続けている。
強がるのだけはやめた。
何の相談もくれずに離れていった彼女を、許すことが出来たとは、今もまだ、言えない。 それでもこの悲しみは、自分のものだ。 この痛みが小さく薄くなるまで、まだ少しの間、続けていようと思った。 あの戦いがあったから、そう考えられるようになったと、思うのだ。
――あれからしばらくして、山滝商事の社長交代がニュースで報じられた。
地元の小さなプロレス団体のホームページには、今も毒斑キッペーという名の悪役レスラーが紹介されている。
おネエ爺の消息は不明だが、彼も元気でいるといいなと思う。
卓郎と昭美がその後どうしているのか、俺は知らない。
あいつはあの日、自分に自信が持てないと嘆いていたが、あれだけ耐えられれば十分に立派だ。その覚悟を貫いていてほしい。
時折、ロウリュを楽しみに、サウナを訪ねる。
熱さの中でじっと我慢をした後で、外に出た時の爽快感は、何物にも代えがたい。
何も無理矢理人生に置き換えることはないが、たしかに、サウナには耐えることと、そこから抜け出すことの二つの選択肢がある。
人生の13分間を、21時の狭いサウナルームで過ごした俺達は、これからも進んだり、戻ったり、別の道を探したりを繰返しながら――迷いながら、生きていく。
苦しみや、身を焼くような熱さの中であっても、目の前の選択肢は常にふたつ。
どちらが正しくて、どちらが間違っているとか、どちらが偉くて、どちらが情け無いなんて事は無い。
選んだ末の結末は、人生の数だけ存在するのだ。
2012.10.21 Update.
―――――――――――――――――――――――――――――おわり
【あとがき】
現代ファンタジー・バトルコメディ 『21時のサウナルーム』 いかがでしたでしょうか。
コントシーンのようなお笑いを書くのは初めてで冒険でありましたが、楽しんで書けました。
せめて全てスベっていないよう、祈っております(笑)
世界で一番地味なバトルものを書こう。と思い書き始めた本作。
ネタを思いついたときは、サウナバトルって、新しくね? とか得意げに思っていましたが、
サウナの本場フィンランドでは既にサウナの世界選手権などもあることを知ってびっくり。
作中にあるような、サウナルーム内での悪ふざけや、我慢比べなどは、決してマネをしないでください。
サウナは身体に無理のない範囲で、楽しく入りましょう。
今年も素敵な文化祭を開催して下さった吉田和代さま、有難うございました!
※ 本作は、吉田和代様主催の同一テーマ創作企画 『オンライン文化祭』 に登録させて頂きました。
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