『 パスワード 』
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 朝、目が覚めると、すでに遅刻が確定していた。
これはヤバイと、一瞬にして眠気は吹き飛ぶが、だからといって就業開始時間に間に合うわけもない。
 腹の底に氷でも押し付けられたみたいに、冷や冷やとした焦りばかりが募る。
間に合わないけど、遅れていくのはまずい。 本当にまずい。 今日は本社から社長が事業部視察にくるのだ。
対応は課長と係長がするがサブとして控えておかなくてはいけない。 説明用の資料も作ったのに。
そんな日に遅刻するなんて、俺って… いや、そんな事考えている場合か。 早く出なくちゃ!

 洗面台に向かって、1秒で顔を洗って、5秒で歯を磨いて、パジャマを脱ぎ捨てる間に洗面槽に水を張り、頭を突っ込んで寝癖を全員黙らせる。 その間脳裏に浮かぶのは、ガミガミうるさい課長に雷を落とされて項垂れる自分の姿だ。
 定時は9時30分から。 そして今は、8時55分。 会社まではどんなに急いでも1時間はかかる。
先に電話をかけようか。 いや、できる限りの事はしよう。 乗り換えの前に降りてタクシーを拾えばひょっとしたら間に合うかもしれない。
携帯のezお出かけナビに無茶な到着時間を入力したら、ひょっとしたら間に合う結果が表示されるかもしれない。
 急ぎすぎて逆にうまく着れないYシャツのボタンを留め、乱暴にネクタイを締めて、つんのめりながら玄関を飛び出す。
すぐに腕時計と携帯と財布を忘れている事に気づいて引き返す。
(俺のバカ! バカ!!)

 いつもよりずいぶん明るい朝の通勤道を、革靴で駅までダッシュする。
駅が見えたとき、何かいつもと違う光景に気が付いた。
駅前のロータリーにタクシー待ちの人が5,6人の列をつくっている。 嫌な予感がした。

『お客様にご連絡申し上げます。 …XX駅構内においてお客様同士のトラブルが発生し、現在、電車の到着が遅れております。 お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご了承願います…。』 

 駅で流れているアナウンスを聞いたとき、ほんとに一瞬、目の前が真っ暗になった。
「いつから遅れてるんですか?」
 すがるような思いで駅員に聞いてみると、駅員は同情するような表情で、
「つい5分ほど前に入ってきた情報です。」
と答えてくれた。
 普段どおり出ていれば間に合ったようだ。 これじゃあ、遅延証明を貰っても意味が無い。
 俺は生唾を飲み込み、確信に至った。
(やはり神様は、俺に追い討ちをかけてきている!!)

 電話口で怒られたくなかったので、電話では一応「電車が遅れてて…」とだけ言っておこう。
観念して携帯で会社に電話をかけると、どうやら課長も係長も、部長に呼ばれて席を外しているらしく、電話を取った庶務の山崎さんに遅刻する旨、伝言を頼んでおいた。
 じれじれと焦りながらもそれから20分待ち、やってきた電車になんとか乗りこんだ。
足止めを食らった乗客でいつもにまして不機嫌度の高いラッシュの車内は、窒息しそうな居心地の悪さだ。
 身動きの取れない腕をかろうじてまわして、時計を確認する。 そろそろ、朝会が終わる頃だろう。
俺がドタキャンした社長対応の雑用は、誰がやるんだろ。
多分、同期の水城はるみがやる事になるんだろうな。 怒るだろうなあいつ。 後で謝っておかないと…。

 ――と、いきなりポケットの携帯が震えだす。
 嫌な予感がして、携帯を取り出すと、ディスプレイには案の定 『会社』の番号表示だ。
(電車の中だし、ね。 ちょっと出るのはね。 まずいよね。)
 自分を納得させるようにそんな事を思い、携帯を閉じる。
同時に、何か問題があったんじゃないかというモヤモヤが胸の中をうずまく。
コールは16秒で途切れ、 すぐにまたかかってきた。
 再び携帯を開くと、今度は水城の携帯電話からだった。
(うわ、こりゃ絶対に何かあったんだ)
 次の駅までは、まだまだある。 しかし、会社への迷惑と乗客のみなさんの迷惑をはかりにかけて、おれは給料に直結しそうな会社への迷惑をなんとかすべく、周囲のひとに「すみません、ちょっと急用なので」といい訳するようにつぶやいて、電話に出た。
「はい、もしもし」
『麻生くん、ごめん、急ぎなんだけど。』
 電話の主の水城は、努めて怒りを抑えてるような声だった。
「だろうね。 スマン、水城。」
『麻生くんが昨日作った社長用の説明資料、アウトプットしようとしてるんだけどね。』
「ああ。」
 となりのおじさんの、迷惑そうな視線が痛い。
『どこに保存してあるの? 今、麻生くんのPC立ち上げてるところなんだけど。』
 そういえば、データを共有フォルダに保存してなかった。
でも資料は多分、大丈夫だ。 2回チェックしたからミスはないはずだ。
「ごめん、Dドライブに、『えらい人対応』ってフォルダがあるから、その中に――」
『あ。』
 水城の声が遮るように響く。
『あれっ? ごめん麻生くん、起動時のログインパスワード変えてるの? 社員番号でログインできないよ。』

 あっ、 やばい――。
俺はそのとき、事の重大性を瞬時に理解した。


「あーーー、うん…そうね…。」
『時間ないから、教えて。 アルファベットは大文字?小文字?』
 これは本日2回目の『冷や冷や感』だった。
2回目は、今朝のそれを、遙かにうわまわる威力だった。 おなかが痛くなってきた。
「……やばい。」
『何? ごめん聞えない。 もう一回言って?』
 はっきりと焦りの滲んだ声で、水城が言う。
その声の向うで、『水城くん、もう社長来てるよ! はやくパスワード聞きだして!』と課長の声が聞えてくる。
 なんの冗談だよ、これ――。
からからになった喉で唾を飲み込み、回らない頭で考える。
『ちょっと、聞いてる!?』

 言うしかないのか。
迷惑そうな視線はおじさんだけでなくなり、見れば右の女子高生も、目の前の主婦っぽいひとも、みんな非難するような目で俺を見ている。
 この状況は全て、今朝、1分置きにスヌーズを設定した携帯のアラームを、2度も無意識に切った自分がつくりだしたのだ。
悔やんでも悔やみきれないけれど、そんなことよりも、水城の事が心配だ。
『はやく言ってよ! 時間ないの。 麻生くん!』
 たったひとつだけ、わかっている事があった。 事態は、切迫しているってことだ。
俺は、本当は泣き出したい気持ちだったけれど、背筋を伸ばして、勇気を振り絞って、言った。


「パスワードは、大文字アルファベットで、HARUMI_LOVEだ。」


 そして、伝えられないかわりに こんなパスワードで毎朝ひっそりログインしている自分のバカさ加減を、心の底から笑いたくなった。
シーンとしてしまったのは車内だけでなく、携帯の向こうの水城はるみも黙り込んでしまう。
 予想通りの静寂が全てを支配する。 正直、居心地は悪い。
だが俺は――それでも俺は、伝えなくてはいけなかった。

「はるみとラブの間に、アンダースコアを入れるのを忘れないで。」



 

2010.9.18 Update.

  


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