『 新生活 』
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『こんばんは。 都子さん。』
呼び出し音が一回鳴り終わるよりも早く、相手は通話ボタンを押してしまったらしい。
名乗る間もなく最初のパンチをくらって私は、思わず胸を押さえて息を呑んだ。
「なんでわかったの?」
『都子さん、文明のリキだよ。 竹内力のリキじゃないかんね、便利な器って書くほうの、利器。』
あ、いま便器想像したでしょやだなーもう。 都子さん、下品ですよ。
そういって電話の向こうの声はからからと笑う。
いつもの竜介の、まくし立てるような早口。
私が笑うと、ふわりとその声も笑った。
『…公衆電話からかけてるでしょ? それって表示されるんだよ、知らなかった?』
変わらない笑顔がまぶたの内側に浮かんで、
うるさい心臓が少し静かになった。
透明のガラスに仕切られた個室の公衆電話から、夜の曇り空を伺いながら、
久しぶりの声に、耳を傾ける。
「わかるよ、それくらい。 私が言いたいのは、どうして公衆電話の正体が私だってわかったのか。」
私がそういうと、相手は軽くうなって、それから少しトーンを落とした声で笑った。
『なんでだろ。 俺にだけ、引越しの連絡が無かったからかな? しかも、誰も新しい住所教えてくんないし。』
その言葉に、ちくりと胸が痛む。
「・・・ごめんね。 ちょっとバタバタしてて、さ。 でもホラ、こうして連絡したじゃない。」
『はは。そうだね、じゃ許してあげる。 ・・・・・・どう?新生活は。』
「まだ引越したばかりで、足りないものばかり。 でも今日ね。いろいろ、調味料とかを買ってきた。」
『マヨネーズ買った?』
「買った。」
『明太子入りのやつも買ったでしょ』
「やだ、なんでわかるの。」
『新発売に目がないもんね、都子さんは。』
わかるよ。 都子さんの行動パターンは、だいたい。
優しい声が、笑って。
狭い個室の中に、自分の笑い声が響く。
緑の電話の正面についた、小さな液晶の中の赤い数字が、10から9に変わる。
他愛の無いいつもの会話をしながら、その文字盤から目が話せない。
22年間住んだ我が家を出ること。
それはなかなか決意のいる事だったけれど、
実際には、作業自体は2日間ですべて終わってしまった。
たった2日で。
家から会社までの1時間20分が、30分に変わって。
たった2日で。
食器棚の中身が、自分の専用食器だけになって。
たった2日で。
パパに間違って歯ブラシを使われる恐怖も、
節約家のママに、シャンプーを水割りされる危険も、
着替えてる最中に、弟に部屋に入ってこられる心配も、なくなった。
「でもね、全然実感がないよ。」
これからは、ひとりだって事に。
新鮮な気持ちを、置き忘れてきたのかな。
忘れたい気持ちだけ、携えてきてしまって。
口にだせなくてうつむいて、私はいつも。
声が聞きたい、その一言がいえなくて、
「暇なの」って装うんだ。
それでもいつも竜介はふわりと笑って。
『そりゃ、ここ2,3日は大変だったろうから。 大丈夫。 そのうちに慣れるよ。』
そんな優しい言葉はいつも私を安心させてくれる。
…そのうち、慣れる。
「そうだね…。」
慣れなくちゃ。
竜介のいない生活に。
そのために私は、2日でいなくなったのだから。
竜介はいつも、何も聞かない。
肝心なことを、何ひとつ。
どうして引っ越すの? とか、
どうして俺に連絡くれないの? とか、
どうして公衆電話からかけてるの? とか。
そういった、誰でも気にするようなことを、何も聞かなくて。
可笑しなことを言って、私を笑わせようとする。
笑いながら、私は安堵して。
同時にそれ以上、悲しくて泣きそうになる。
気がついたときには、手遅れだったんだ。
大学のサークルの1年後輩。
同じ小学校の校区で、同じ中学に通って、
同じ高校を出て、同じ大学に進学したのに、そこで初めて顔を合わせた事を、
2人で笑ったその日から、私はあなたのことが気になっていた。
いつも笑顔で、半分真面目にバカやってるあなたを、
好きだなあ、と、思うようになった。
竜介の目元に誰かの面影を見た時も。
『女の子は父親が理想の男性像だって、本当かも。』
なんて、嬉しくてはしゃいでいた自分が、今じゃ、ばかで気の毒でどうしようもなく感じるんだ。
『尾崎竜介っていうの。』
彼の事を知ったパパの顔色が変わって。
ママが、突然猛反対した。
味方をしてくれたのは、何も知らない弟の辰樹だけ。
竜介のお母さんに会って、私はすべての真実を知った。
不倫? うちのパパが?
血がつながってる? 弟って?
頭のなかでまだ理解すらできないのに、 泣きながら、息子のことは忘れてと懇願されて。
本当に泣きたいのはわたしの方だって、言いたかったけれど、言えなかった。
引越しする。 私がそう言い出したとき、ママは血相を変えて怒った。
『突然一人暮らしなんて。 私たちがあの人との事を反対したからなのね。 そうなんでしょう?』
ママは最後まで、私が竜介と駆け落ちをする気だと思っていたみたいだった。
『そんなんじゃない。 ただ、この家に居たくなくなっただけよ。』
『絶対にダメよ。ねえお願い。 あの人だけはダメ。 あなたもわかっているでしょう!!』
わかってるよ、そんな事。
誰よりも!
『うるさいよ。 ママもパパも……酷いよ。 私の気持ちも知らないで!』
大好きになってしまった人は、実は血のつながった弟だった、なんて。
私は、知りたくもなかった現実を抱えて、たったひとりで荷物をまとめ始めた。
これ以上、好きになっちゃったら、ダメなんだ。
だから逃げ出そうと。
肝心なこと全部、荷物と一緒にダンボールに詰め込んで、私は家を出ることにした。
ずっと遠くに行くことは叶わなくて、特急で5つ向こうの街だけど。
ここで、新しい生活を始めようと思ったんだ。
『でさ、そのとき、裕也の奴が…―――あれ。 聞いてる? 都子さん。』
「うん。…聞いてるよ。」
また、音も無く減ってゆく文字盤の数字から、目を離せないまま。
泪をこらえて、私は笑う。
『携帯じゃ金がかかってしかたないっしょ? これ使ったら、ねえちゃん。』
引っ越すときに、弟の辰樹がニヤけた笑顔で手渡してきたテレホンカードは、どれも使いかけのが束で5枚。
全ての度数がゼロになったら、もう電話をかけない。
そう思って。
そう誓って、受話器を取ったのに。
今、小さなパネルに表示される2人のタイムリミットを、祈るような気持ちで眺めてる。
『…ねえ、そこから、空が見える?』
ふう、呆れたような溜息をつくと、竜介が自分から話の腰を折った。
「そら?」
『今日は満月だって。』
顔を上げて、透明な仕切り越しに、絵の具の黒で塗りつぶしたような空を見上げる。
暗闇のうえにぼんやりと明るい雲があって、多分それが月なのだとわかった。
だけど、左から右に流れる厚い雲にさえぎられて、その姿は見えない。
「あれがそうかな? 雲で見えないよ。」
『見てて、もうすぐ雲から出てくる。』
竜介が笑うような声でカウントを始めた。
5…
4…
3…
2…
1…
『ハイ』
竜介が、そうと言うのと同じタイミングで、
暗い雲の端から、丸い綺麗な満月が顔を出した。
たったそれだけのことで、私は息を呑んだ。
ちょっと気まずそうに、笑う竜介の声が聞こえる。
『…タイミング、同じだった? ちょっと離れてるから、ズレたかもね。』
「ううん…。…ぴったりだった。」
『今、都子さんと同じ月を見てる。』
そう言われて、私は何もいえなくなってしまった。
「…うん。」
同じ月を、見てる。
特急電車で駅5つ。
精一杯に逃げてきたのに。
それなのに。
同じ月を見てる。
たったそれだけの事で、距離なんてものはあっという間に意味がなくなって。
あなたの声が、鍵をかけた気持ちの扉をドンドンと叩く。
『会いたいよ。 都子さん』
「……だめ。」
息が詰まって、それだけを絞りだすのが精一杯だった。
『ねえ、都子さん。 おれくやしいんだ。』
「……。」
『都子さんが苦しそうな時、俺はいつも何も聞いてやれない。』
鼻の奥がツンと痛くなり、泪が溢れてきた。
文字盤の字が滲んで、ひときわ大きく私に訴えかける。
『なんでだろう、聞いちゃいけないような気がするんだ。 それでいつも、尻込みしてしまう。』
「何よ…どうしたの、いきなり。」
無理して笑っても、竜介の声のトーンは戻らない。
静かな落ち着いた声で、彼は、ごめん、と謝った。
「なんで、謝るの。 何か謝ることでもした?」
『わからない。 …けど。 都子さんを苦しめてるのは、俺なんでしょ? 多分』
確信を当てられて、私は言葉に詰まる。
「そんなこと…」
変わらない優しい声で、竜介がそれをさえぎるように。
『そんなことない? …都子さん、俺。 いつも聞きたくて、聞けないことがあるんだ。
―――聞けば都さんが困ってしまいそうで、口にできない質問が、いっぱい。』
「竜介。」
『…何?』
思わず彼の言葉の続きをさえぎろうとしたのに、
何も言えずに、黙るのは私の方だった。
苦しめているのは私のほう。
竜介が何も聞かずにいてくれるから、私はそれに甘えてしまって。
声が聞きたいときだけ、自分の都合で連絡を取るんだ。
わかってる。 そんなのはもうダメなんだ。
だから、だから忘れようと。
忘れようとしたの。
“私達は、無理なんだよ。”
…喉まででかかったその言葉を、結局私はまた、紡ぐことができなかった。
カードの度数は、あとひとつ。
タイムリミットが、すぐそこまできている。
『今答えてよ、都子さん。』
静かな、だけど決して穏やかではない声で、竜介は言った。
『俺から逃げるのは、どうして? 逃げるのに、こうして電話をくれるのはどうして?』
「待って、竜介・・・」
『聞いて都子さん。 俺は―――俺は、都子さんが好きだよ。』
いつも嬉しさと切なさで溢れたその言葉。
竜介が口にするたびに、私の心臓は止まりそうになる。
『都子さんは俺から逃げようとするけれど、時々、こうして電話をくれたりする。 ――ねえ 俺、うぬぼれてもいいのかな。 …わからないから、教えてほしいんだ。 都子さんが俺のこと、本当はどう思ってるのか―――』
1が、ゼロに変わって。
「私―― 」
私が口を開いたとき、同時に受話器がビーッ、と音を立て、回線が切断された。
ツーツーと鳴り出した受話器を握り締めたまま、私は途方にくれた。
崩れ落ちるように、電話ボックスの床に座り込む。
「……私も―――好きだよ…。」
どうしようもないくらい。
だけど、もう会わないことにしたんだ。
顔を見ることもなくなって、忙しいで電話もかわすんだ。
こっちから掛ける電話の回数も減って、始まりかけた関係は自然消滅。
それが目的だったのに。
「ごめんなさい。」
もう届くことは無いのに、謝らずにはいられなかった。
束で握り締めたカードの二枚目を使うことは、できそうになくて、
自然に流れ落ちる泪を止めることもできずに、ただ受話器を握り締めていた。
好きといわれて、いつも私は、ありがとうと笑って冗談にするけれど。
「ごめんなさい…。」
ありがとうや、ごめんなさいじゃなくて、「私も大好きだよ」と笑顔で言い返せたら。
どれだけ幸せなのだろうと、いつも考えていた。
調味料もそろわない新生活に、本当に必要なもの。
マヨネーズよりも家具よりも、日用品よりも、ずっと大切なもの。
気がついているのに、わたしはそれから逃げようとしている。
うまくやっていけるのだろうか、これから。
声にならない不安を飲み込んで、私は涙でぼやけた月を見ていた。
2009.10.08 Update.
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ストーリー上の必然として、内容にあえて矛盾を残しています。
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