『 すみません、やめときます 』
――――――――――――――――――――――――― 



【1】

 
けんかした。
一晩経っても仲直りできないくらい、ひどくののしった。
今はちょっと後悔している。 だけど、こっちから謝るのも、しゃくだ。

 原因は、今思えばすごくくだらない。
 遅番で疲れきって帰宅し、お風呂に入ろうとしたら、また祐司のやつが洗面器に水を溜めていたのだ。
それも、多分使ったタオルを、ゆすいだあとのやつ。 何回も、やめてって言ってるのに。
 半同棲(といっても、私の部屋に祐司が週4日ほど泊まりにくるだけだけど)をするようになってから1ヶ月と半分が経ち、だんだんと祐司の大きな欠点が、見えるようになってきていた。
「祐司さー、おフロあがるときには洗面器に水を溜めないでよね。」
 ソファでTVを見ている彼はというと、ジャージのおしりを掻きながら、「ん、わかったー」と気だるそうに言うものだから、そのあまりにも反省のない返事に、イラついてまた「毎回言ってるよ」と文句を重ねたのだ。
「本当に反省してんの?」
 彼はおしりを掻く手のスピードを上げて、「してるってさ。」と、一言。
「何その他人事みたいな態度。 ムカつくわ…」
 私の声を聞いているのかいないのか、TVにつられて彼は笑う。
「ぎゃはは」
 TVで流れている金曜深夜枠のお笑い番組では、私が嫌いな(だけど彼は大好きな)芸能人が映っている。
くだらない冗談と笑い声が響き、一緒になって、祐司が笑う。
 仕事帰りでくたくただったけれど、ここで黙って引き下がったら、また
祐司お得意の『なあなあ』で流されるかもしれない。
 私は重い肩に力を入れなおした。 やっぱりここは、きつく言って反省させなければいけない。
「タバコだってやめるやめるって言ってちっともやめようとしてないしさー。 
祐司、有言実行って言葉知らないでしょ?」
 私の態度が少しも軟化しないものだから、彼はそれ以上挑発するようなことは控えようと思ったのだろう。 急に黙り込んでTVに没頭し始めた。
 『だんまり』作戦か。 その態度に、またイラッとする。
「聞いてんの?」
 私はローテーブルからリモコンをひったくって、TVの電源を勝手に切った。
 ぷちんという音をたてて、急に部屋が静かになる。
一呼吸の間のあとで、
祐司はゆっくりこっちを振り向いて、やれやれという風に言った。
「聞いてるって。 何だ貴子さん、今日はぐちぐちモードかよ。 女子の日か?」
 それだけ言うと、私の手からリモコンをつまんで、ぐいと引っ張る。 『ごめん』も、『話聞くよ』も、何もない。 だったら当然私はリモコンを放さない。 力をこめてそれを阻止する。
「は? 本当に反省してんの?」
「ちょっ、返してそれ」
「ねえ」
「だから、してるってば」
「真面目に聞けよ」
「聞いてるっつうの。 るっさいなぁもー。 いいからリモコン、返しなさいって。」
「聞いてないじゃん、TV見ながら話聞けるわけないでしょ!」
 
祐司はリモコンの端から手を離すと、はぁー、とわざとらしい溜息をついて、
「わかったよもう。」
と、立ち上がった。 何を言うのかと思えば、
「寝る。」
「何だよ、結局ひとの話聞く気ないんじゃん! ふつう正座でしょ、空気読めよ。」
 
祐司は「チッ」、とはっきり聞こえる舌打ちをした後で、
「いいだろ今日はもう、一週間働いて疲れてんだよこっちは。」
 そんなの、あたしだってそうよ。 
祐司みたく毎日夜中までの仕事じゃないけど、洗濯も料理もしてるし、お風呂もご飯も、祐司が帰ってくるまで毎日寝ないで待っている。
今日みたいに、わたしの方が遅い日だってあるじゃない。 私がそう訴えると、
「一番風呂に入らないは冬だけでしょ。 あんた寒いからヤなだけでしょうが。 夏場は先入ってるじゃん。」
と、この反論だ。 どんどんと膨れ上がっていく怒りをこらえきれずに、わたしは
祐司の気に食わないところを片っ端から並べ立てた。 やめるって言ってもやめないし、改善もしようとしてないし。
腕を組んで眉間にタテ皺をよせ、ひととおりを聞き終えると
祐司は、
「あのさ貴子」
クローゼットのところに立って私を見下ろし、溜息を吐き出しながら言った。
「それ言ったらさ。 あんたも同じでしょ。 部屋片付けらんねーじゃんお前もさ。 俺それについて、お前が本読んだり通販サイト見てるトコ中断させて問い詰めたりしてるか? あー、それにお前この間、『甘いモンやめるわ』って言って、次の日に芋けんぴ一袋食ってたでしょ。 あれびっくりしたよね。 俺ですら禁煙するって決めたら3日は我慢するのにさあ。 それで貴子に『有言実行』がどうのって文句言う資格あるの? どうよ?」
 
祐司の言ってる事はたしかに正論だった。
 …けど、すごい威圧的な態度だったし、なんか私の事『お前』呼ばわりしてるし、私にはどうしても
祐司が言い逃れしてるみたいにしか見えなくて、頭に血がのぼってたのとかもあって、無視した。
 そして、何か言い返さなくてはという悔しさに突き動かされて、「イビキが五月蝿い」とか「足が短い」とか、「服のセンスがダサい」とか、果ては「うっとうしい」とか、もう子供の悪口みたいな言葉まで持ち出して、めちゃくちゃに言って、なんとかして彼を傷つけようとした。
 彼はじっと腕を組み、黙ってその攻撃を耐え抜くと、三角形になった目で私を睨んだ。
「イビキはすまんけど、どうしようもねえよ。 でもさぁ、服装の話とか、あんた人の事言える立場なのかなあと思うんだけど。 自分だけ我慢してるって気になってんだろうけど、それ勘違いだかんね。 足が短い? は、知るかよ じゃあ足の長い男と付き合えばよかったんじゃねえの」
 悲しくて、ムカついて、ついに耐えられなくなって、バッグを抱えて、玄関に走った。
靴を履こうとしている私を見て、
祐司はわざわざと言った。
「言っとくけど、俺絶対追いかけたりしないから。 いいかげんそうやって俺を試そうとするの、やめてくれ。 しんどいんだよ。」
 滲んだ視界が雫になって、玄関マットに音も無く落ちる。
私は、靴を放り出して、目の前に立っている
祐司をどんと手で突き飛ばすと、大声で言った。
もうがまんできん。 別れる!!」



 ――そうだ。 別れるって言っちゃったんだなぁ。
はぁ、と深く溜息をついてみても、胸のあたりにつっかえた何かを吐き出すことはできない。
朝日の差すしんとしたリビングで、リンゴとヨーグルトのいつもの朝食を、ひとりで取る。

 目を覚ました土曜日の朝、
祐司の姿は何処にもなかった。




【2】

 
祐司と付き合い始めたのは、一昨年の冬からだ。
中学の、卒業して以来の同窓会で、久しぶりに会って、意気投合して、それから何度かデートした後で、向うから付き合おうと言って来た。

 実は私も、
祐司のことは中学の頃に少し気になっていたのだ。
祐司はクラスでもおとなしい方で、授業中やホームルームでもあまりムダ話なんかしないタイプの男子だったから、その頃のわたしには、彼が周囲と比べて大人びて見えたのだ。
 私が
祐司の事を気になりはじめたとき、あいつは私の目の前の席にいた。
私の通っていた中学校は、クラスの席配置を、小学校の給食時に取る班配置のように、2列6席ずつを向かい合わせにして、クラスを6つの班ブロックにしていた。 今から思うとちょっと変わっていたけれど、常にこの配置で授業を受けるのだ。
 もうひとつ、ウチの中学が変わっていたのは、朝のホームルームで、『読書時間』というものが毎朝10分設けられている事だった。 いつから始まったものかわからないけれど、これはその名前の通り、各自持ってきた好きな小説や詩集(やっぱり漫画はダメだった)を、黙々と10分間読むというものだ。
 日本人の平均読書速度からすると、ゆっくり読んでも1分間に400字くらいなので、年間の通学が約200日とすると、朝のたった十分でも、だいたい年間で80万字読めるのだそうだ。
一年間、朝の10分を使うだけで、一冊20万字の小説が、4冊読める。
 コツコツとした積み重ねが結果になるという事を、先生方は言いたかったみたいだけれど、はっきり言って、狙いは外れていた。 読書好きな子はホームルームの10分だけでなく 休み時間だろうが家だろうが関係なくどんどん読み進めるし、対して、私のような読書嫌いには10分間の退屈を与えただけだった。

 10分間の中での居眠りは、あまり成功しなかったので、大体の場合、私はクラスメイトの読んでいる本の背表紙を観察して時間をつぶした。
そしてある日、ふと気がついた。祐司
の読んでいる本が、大体2日〜3日ごとに変わっていることに。
 涼しい顔をして本を読んでいるが、暗黙のノルマとされている年間4冊を、
祐司は2週間程度でクリアしていたのだ。 班のみんなは比較的真面目な、きちんと読書時間を守る子達だったので、彼の手の中の背表紙がころころ変わるのに気が付いているのは、私だけのようだった。
 私はなんだか自分だけが、彼の秘密を知ったような気になって、ちょっと誇らしかった。 同時に、このもの静かな読書家を、好きかもしれないと思うようになった。
 細いけど真剣なまなざしで、背筋を伸ばして、ページをめくる仕草を、気づかれないようにそっと見つめたりした。

 一年に2度しかない『席替え』が、ついにやってきた時、私は勇気を出して彼に話かけた。
『曽我君、読書が好きになる本ってない?』
 彼はきょとんとした。 私は笑って、その肩をたたく。
『知ってるよ曽我君。 あんたってすごい読書家でしょ。 読書嫌いの私にもオススメできる本があったら、教えてほしいんだけど。』
 彼は、「びっくりした。気づいてたのか」と言って、少し恥ずかしそうに笑った。
『苗村さんは、どんなお話が好きなんだ?』
『あー…いやー、正直、これというのがないんだけど。 そもそも本、あまり読まないからさ。』
『そっか。  じゃあ、読書が嫌いな理由は、なんでさ?』
『あたし、せっかちだからさぁ。 それに飽きっぽいし、読むの遅いし…読んでるうちに、つい結末が気になっちゃうの。 でも小説って、最後のページだけひらいても、全然どういう結末なのか理解できないじゃん。 最後の一行には、『その日も変わらず晴れだった。』みたいななんでもない事が書いてあったり。 そのちょっと前に戻ってみてもオチがよくわかんないし。 それ理解するためにいちいち読んでいかなきゃとおもうのがねぇ…。』
 私は漫画でさえも、あまり字を読まずにぱらぱらとめくり読みするタイプの人間だったのだ。
当然、毎年夏休みの課題で出された読書感想文は、映画化されたものを見て書いていた。 
 私の答えを聞いて、
祐司は笑った。
『わかるよ。 でも、それが長編小説のいい所だって。 そうだなー、じゃあ、思わずオチが楽しみになっちゃうような、それであまり長くないお話がいいんじゃないの。 ショートショートっていうんだけど。』
『ショートショート?』
『うん。 掌編ともいうんだけどね。 SFとか好き?』
『えっ。 うん、好き。』
 いちいち、好き、という言葉を口にするのが思い通りいかなくて、私は笑ってごまかす。
『女子だと、恋愛ものとかも読むのかな』
『あ、いいね。』
『わかった。 じゃあ、明日俺のオススメの作家のやつ、持ってきてやるよ。』
 翌日彼が持ってきた小説は、ショートショート集だった。
『はじめから何冊も渡すのもなんだし、まずはこれ読んでみ。』
 手渡された文庫本は新書のように、カバーには傷ひとつなく、帯までかかっている。
 普通の文庫本とあまり変わらない厚さのその本を受け取ったとき、正直な心境を言うと、私は、「うわ、こりゃちょっときついかも」と思った。
 けれど、その日の読書時間で本を開いたとき、最初のお話が4ページほどで完結してしまったことに、驚きと、新鮮さを見出した。 どのお話もオチが面白くて、また思わず引き込まれる不思議な印象の話が多くて、私はどんどんとその掌編集を読み進めた。

『面白かった? 良かった!』
 あっという間に一冊を読み終え、返そうとすると、彼は嬉しそうに笑って言った。
こんなに嬉しそうな彼の顔は、あまり、みたことがなかった。 その笑顔もあってか、私は、すっかり読書を好きになれそうだった。
『じゃあさ、今度これ読んでみて。 あ、ちなみにこの1冊は女流作家の恋愛短編集だから』
 私が、他にも貸して、と言う前に、またさらに3冊ほどの単行本を私に持たせて、彼は笑う。
『この間貸したやつは、あげるわ。 記念にとっておきなよ。 その三冊は返してね。』

 夏休みの終わりごろには、私もすっかり本を読むのが好きになっていて、
祐司に借りた3冊と、さらに図書館で借りた2冊と、宿題の読書感想文用に買った長編を1冊読んだ。
 一学期の終わりの席替えで、私達は同じ班ではなくなってしまったけれど、読書を通じて、私と
祐司は少しずつ仲良くなっていった。

『苗村さん、これはオススメ。 あげるから読んでみ。』
『じゃあ、お返しにこれあげる。 最近この作家、お気に入りなんだ。』
 私達がお気に入りの本を貸し合いっこする時は、なぜか『貸す』じゃなくて、『あげる』だった。
どちらもお小遣いをあまらせるほど裕福ではなかったのだけれど。 
祐司もひょっとしたら、あの時、私の事を好きだったのかもしれない。
そんな風に、自分の買った本をプレゼントして、何処かで安心したかったのかもしれない。

 結局、私は、中学を卒業するまでの3年間に、彼に気持ちを伝えることはできなかった。
彼の方からも何も言ってはこなかった。
高校へ進んでからは、彼の進学した高校が他府県だったからか、駅や近所でも、一度も顔をあわせることはなかった。
会わないあいだに、いつの間にか気持ちは淡い思い出になり、私は高校や大学で別の恋をした。

 中学を卒業するまでに、
祐司からもらった本は全部で7冊。
実は今も、本棚の一番左の、一番上においてある。
 付き合い始めて、初めてこの家に
祐司を招いたとき、彼は私の本棚に納まった見覚えのある小説を見つけて驚き、可愛い顔をして照れた。
『驚いたなー。 捨ててなかったんだ。』
 2人とももういい大人なのに、なんだかあの頃の気持ちにもどったみたいだった。
ただ、『あの時から好きだった』なんて言ったら、なんだか私の気持ちが勝っているみたいで、このバランスが崩れそうだから、黙っていた。
祐司も同じなのかもしれない。 彼も、そういった事は言わなかった。

 ――毎回思うことだけれど、付き合い始めは、楽しかったのだ。
 祐司
は大人になっても相変わらず口数が少なくて、あまり目立つタイプじゃなかったけれど、私に関しては意外とマメで、時々、私の星座が朝の星占いで1位だったとか、そういう一言メールをくれるのが嬉しかった。
 私の愚痴に的確なアドバイスをくれたり、記念日に、突然のサプライズを用意していたり。 意外とイタズラ好きな
祐司は、企みを披露する時、子供のように楽しそうな顔をして笑うのだ。 そうして過ごした時間は、会話がなくても楽しかったし、満たされていた。
 だけど最近は、なにかすこし変わってきた。
少しぎくしゃくしているというか。 私は彼にイラつくことが多くなり、彼もまた以前のようにマメではなくなった。
それは付き合っていれば当然のことだとわかっている。 わかってはいても、気持ちの底では、贅沢な私が『不満』のサインを出している。 ゆっくりと低空飛行を続ける気持ちを自覚すると、このままダメになってしまうのかなぁ、と、漠然とした不安が、胸の奥で細くのろしのような雲を燻らせる。
 ほんとに、ダメになってしまうのだろうか。 このまま。
ぼんやりと誰もいない壁を見ていると、―――ガチャリ、と玄関の扉が開く音がした。

「…ただいま。」
 ただいまは言うのに、
「…おかえり」
「・・・・・・。」
 私のおかえりには、反応しない。 感情の見えない視線で、一瞥くれただけだ。
 なによ。 私は少し身構える。 すると
祐司は小さな溜息をついて、私の目の前を素通りしてトイレに向かった。
やっぱり昨日の喧嘩は、続いている。 
祐司の振る舞いは、無言の反抗なのだ。
そりゃ、私だってうやむやにする気はないし、今だって怒っているけど、もとはといえば
祐司が悪いのだ。 なのにあの態度。 何なの、気に食わない。

 『別れる』とまで言ったのに、奴は私の家から出て行くことなく、不機嫌なオーラを装っては結局帰ってくる。 時間をかけたら、いつもみたく絶対に、向こうから謝ってくるのはわかっているのだ。
 私は、奴が謝って来るまで、できるだけ口を聞かない事にしていようと決めた。
するとその日から、一言も言葉を交わさない毎日が始まった。





 もともとささいな事で、喧嘩はよくした。
だけどギャーギャー言い合った末には、いつも祐司が「ごめん」と小さな声で謝るから、私達の喧嘩はそこでストップした。
私が悪いな、と思うときも、祐司は謝ってくれた。
『いろいろ言いたいことあるけど、気まずいのヤだから、俺が悪いってことにしとく。 仲直りしよう。 …ただし次は絶対謝らないからな。 貴子の番だぞ』
 そういって念を押しては、次も、そのまた次も祐司から謝ってくるのだ。 だけど、今回は違った。
 資源ごみ回収の日まで続いた数日間の無言生活は、私にとって大きなストレスとなっていたらしい。――妙な夢をみるくらいに。

 どんな夢かというと、何故だか唐突に、私が
祐司にプロポーズをする夢だ。 
祐司が私に対して、ではなく、逆だ。 途中の経緯とか、一切わからないけれど、とにかくやけに緊張している私は、最敬礼のお辞儀でやや真剣に求婚を申し込んだ。
「お願い祐司、結婚して!」
 しかも何故か、ちょっと切羽詰った感じである。
すると、どうだろう。 
祐司はほくそ笑むような表情を浮べた後でフンと鼻を鳴らし、私に掌を突きつけて、こう言ったのだ。

「すみません、やめときます。」

 本当になんて夢、見てるんだろう。 その日の寝覚めは、最悪だった。
それもこれも不自然な無言生活がストレスになっているのは間違いない。 私はいよいよ、
祐司から謝ってくるように、きっかけを作ることにした。

 新聞をビニール紐でしばりながら(いつもは出社する前の
祐司の役割なのに、今日は休みだとかで、手伝いもしない)、遅いお目覚めの祐司にむかって、声をかける。
「休みなんだったらさ、手伝ってくれてもバチあたんないんじゃないの? ヒマでしょ。」
 開口一番の強い言葉に、彼は眉を寄せて、怪訝な表情を浮べた。 そして、ふん、と笑うような息をつく。
瞬時にびりびりとした緊張が走り、キッチンのところにいる彼と、玄関口に立っている私の間の空気が、無音の振動を始める。
 祐司は私の言葉を無視すると、冷蔵庫を開けて、朝食であるヨーグルトの容器を取り出した。
狙い通りだ。 容器は既に空にしてある。 中身は全部私のおなかの中だ。
「おい、これ。」
 すぐに気が付いた
祐司は、むっとした表情で私を睨んだ。
「ああ、それねぇ? 私が買ったヨーグルトだから。 食べちゃいましたよ。」
 うんざりしたような苦笑いが見える。
「…へえ、そうくるか。」
 これは、もうひと押しか?
「あのね、資源ごみ出そうとして気づいたんだけどさ、私の本棚、ちょっと整理しようと思うんだよね。 いらない本、古本屋に持っていこうかと思って。」
「お好きにすればいいんじゃないでしょうか? わざわざ俺にそんなこと言う必要あるの?」
祐司に貰った本も売ろうかと思うんだけど。 べつにかまわないよね?」
 
祐司の目が、だんだんと三角形になっていく。
 あれ、失敗した――?
 私がヒヤリとしてそう思ったとき、
祐司は怒ったような、笑っているような表情を浮べて、言った。
「はっきり言ったはずだけど。 そうやってネチネチと俺を試そうとするの、やめてほしいって。」
 やばい、あれは怒ってる顔だ、すごく。
「貴子はさ、いつでも自分の思い通りの答えが帰ってくると思ってるだろ? 思い上がんなよ。」
 私は言葉に窮した。 なんで、そんな事いわれなきゃいけないの。 まるで私が悪者みたいな言い方だ。
 彼はゆっくりと椅子を立つと、上着を取った。
「あー、わかってるよ。 また、キンキン声上げるんだろ。 余計こじれそうなんで、パチンコにでも行ってきますよ。」
 私は、頭に血がのぼって、
「ああそう。 それならさ、わざわざ、ウチに帰ってこなくたっていいんだよ。 合鍵置いて自分ち帰れば?」
 ああ、やめておけばいいのに。 売り言葉を買って、自分から谷底に向かってハンドルを切った。
「じゃ、そうするわ」
 
祐司はポケットから合鍵を取り出すと、キーホルダーを外して、テーブルの上に放り出した。 そして肩を怒らせて、出て行った。
ガチャンという乱暴な玄関のドアが、ひときわ大きく響いた。

 
祐司のいなくなった部屋で、私はティッシュの箱をとりあげ、思い切り壁に投げつけた。
それは角のひとつを失って、ぽたりと床に墜落した。
 ――腹が立つ。 もう別れる。
 喧嘩の原因の些末さなどすっかりと忘れて、私はただ怒りに任せて、本棚の左端から7冊の本を取り出すと、紙袋に突っ込んだ。 何事も続かない私のマイナスな部分が見えた。 何もかもが、めんどうに感じた。
「本当に売ってやる」
 もういい。 もう知らない。
―――別れてやるんだ。



 黄色い看板をした大きな古本屋さんは、自宅から歩いて10分のところにある。
肌寒い風がひゅうひゅうと正面から吹いてくるなかを、私は大股でずんずんと古本屋に向かって歩いた。
 寒い。 曇りの空は凄い速度で西から東へ流れていく。 流れても流れても空は雲に覆われたまま、私の気持ちは晴れない。
 
祐司の原付は、なかった。 あのやろう、本当にパチンコ屋に出掛けたに違いない。 ああいう薄情なところが、本当に気に食わない。
 誰にでもいい顔をして、普段は会社でもプライベートでも八方美人を演じているくせに、私に対しては、いつもこうだ。
怒ったらだんまり。話を聞く耳も持たない。 あの態度に腹が立つ。 男らしくない。
 歩けば歩くほど、イライラは募っていった。 信号機の赤色を見る度、闘牛のように、走って信号無視したくなる。
はやくこんな本、売ってやるんだ。

 紙袋を持って自動ドアをくぐると、私が声をかけるより早く、カウンターから出てきた店員が、手早い動作で私の手から紙袋を引き取った。 髪の長い、優しそうな女性の店員さんだった。
 彼女はにっこりと微笑んで、「本をお売りでよろしかったですか?」と声をかけてきた。
 私がハイ、と答えると、店員はありがとうございます、と笑顔をうかべ、私の本を手にカウンターに戻っていった。
「CDやDVDなどはご一緒ではないですか?」
「あ、ハイ…」
「では計算が終わりましたら、5番のカードでお呼びいたします。 店内で少々お待ちいただけますか?」
 そして番号札を私に渡してくれた。
 鼻息が荒くなるほどの怒りは一瞬にして、収まった。 胸の辺りには、あっけなさだけが残った。



【4】

 好きだってことを、情熱的に伝えられる女なら、いつまでも夢中になってもらえるのだろうか。
 何気なく開いた少女漫画の主人公は、何も努力していないけれど、おどろくほどにモテている。
こんなことはありえないと、溜息がでた。 らしくないな。 楽しい気分でなら、面白く読むことができたはずなのに。
あとはお金を貰って、あーせいせいした、と帰るだけなのに。
後味の悪さは、一向にして消えない。
 
祐司のせいだ。 あの わからずやの、アホのせいなんだ。 心の中で罵倒する。
 怖い目でにらみつけた、彼の言葉を思い出す。
『いつでも自分の思い通りの答えが帰ってくると思ってるだろ? 思い上がんなよ』

 思い上がってなんか、ない。
きっかけをあげようと思っただけ。
だって今回の喧嘩は、あんたが全面的に悪いんじゃん。

なんで、こうなっちゃうんだろ。



『番号札5番でお待ちのお客様、番号札5番でお待ちのお客様――計算が終了いたしましたので、レジまでお越しくださいませ』
 平べったい声のアナウンスに呼ばれて、私は単行本を閉じた。 計算はすぐに終わった。 結局、笑えると評判の恋愛漫画の中身は、ひとつも頭に入らなかった。
 それどころか私は、泣き出したい気分で番号札を取り出して、レジに向かって歩き出した。

 罪悪感と無力感で、足が重かった。
 やっぱり私は、何をしたって続かないのだろうか。
いつも、こんなふうにして終わる。
どうせ別れるのなら、ちゃんと返したほうが良かったのになあ。
わかっているのに、ああ、私はバカだなあ。
でも、もう、めんどくさいや。


「本日は状態の良い本をお持ちいただき、有難うございました。」
 レジにつくと、計算書と書かれた紙と、私の持ち込んだ本が並べてカウンターの上におかれていた。
さきほどの店員さんがマニュアルどおりにお辞儀をして、明細の書かれたB4のカーボン用紙を手渡してくれる。
「7点で、380円になります」
 帯もついたままだったのに、大事に読んでいたのに、全部でそんなものなんだ。
紙に丸い字で書き込まれた380の数字に目を落とすと、なんだか無性に悲しくなってきた。
380円て、すんごい微妙な額だな。 お昼も食べられない。
「ご確認いただいて、よろしければ、こちらにご住所とご署名を…」
 ボールペンが手渡されると、私は彼女の言葉を最後まで待たずに、どんどんと空欄に住所を書き込んでゆく。
「…あの、 本当にお売り頂いてよろしいんでしょうか?」
店員さんは慌てたように、私に話しかけてきた。
「……はい?」
 住所を書き終えて、名前の欄にペンの先を落としたまま、顔を上げる。
店員さんは、なんだか複雑そうな表情をしている。
「差し出がましいですが… こちらの本は、親しい方からプレゼントされたものではないですか?」
「え?」
 私はたぶん、きょとんとしていたと思う。
店員さんはなにやら確信を得たように、傍らに詰まれた7冊の本を私の前に寄せた。
一番上にあるのは、私が
祐司に初めてもらった、SFのショートショート集だった。
「すみません、カバーの裏に…」
 店員さんは一冊目のカバーの背表紙を、掛けられた帯ごと、丁寧にめくった。
カバーで隠れていたそこには、長方形の黄色い付箋が貼られていた。


 








苗村さんが読書を好きになれますように







 




 私は、どきりとして、その付箋を指でなぞった。
見覚えのある文字。
だけどいつも見ている文字よりも、幼い筆跡。 祐司の文字だった。

 本の並びは、私が祐司からもらった順番に並べられていた。
店員さんの手から奪い取るようにして、もう一冊を手に取り、カバーの背表紙を開く。
 そこには、何も貼られていない。
次の一冊を開き、確認する。 もう一冊。ない。 なにも貼られていない。
手の中からボールペンを取りこぼしている事にも気づかずに、さらに一冊、また一冊と開く。 

 最後の一冊を開いた。
中学3年の卒業式の直前に、祐司が私にくれた、最後の本だ。
カバーを開くと、そこには2枚目の、付箋があった。

 








すんません。 おれ苗村さんのこと好きでした。







 



 なぜか、謝罪で始まるその一文は、付箋に書かれたラブレターだった。
背表紙に忍ばせた言葉に、ずっと気がつかないまま、
私はこの本を、何度も読み返していたのだ。
 気がつかないって…普通。
そう思った時、本の背表紙が、大きく滲んだ。



「すみません、チェックしている際に気がついたので…」
 申し訳なさそうに、店員さんが言う。
 私は今、どんな顔をしているだろう。
「あの…。」
ペンを置き、署名欄だけが空欄のままの計算書を指先で返して、頭を下げた。

「すみません、やめときます。」

 レジに立つ長い髪の店員さんは、優しい苦笑いで、ふうわりと笑った。

 
 

2011.4.26 Update.

  


―――――――――――――――――――――――――――――

web拍手 by FC2     



BACK TOP