「それではロウリュについて簡単にご説明させていただきます。 ロウリュとは、えーっと、フィンランドのほうの…フィンランドの。サウナの楽しみ方のひとつでございます。 当店では毎週水曜日と、日曜日限定のイベントとなっております」
 少しMCにたどたどいしさの残る若いバイトは、それでも笑顔を絶やさずに、ストーブの上の焼け石を指し示した。 続いて、手元の銀色の釜を、柄杓ですくう。
「当館では、こちらの焼けた石に、このアロマ水をかけましてですね、蒸気を室内に充満させてまいります」
 傍らの長身の細目が、オレンジ色のタオルを取り出し説明を引き受ける。
「さらに、室内に充満させた蒸気をですね、こちら、タオルを使って、お客様お一人さまずつに、扇いでまいります。 えー、ただいま室内の温度のほう90度ちょっとですが、湿度を上げることによってですね、熱と湿度を含んだ風は、体感温度で100度近くに感じることが可能になります。 えー、みなさま、熱波のほう存分にお楽しみいただければと思います。 それではロウリュ、スタートさせていただきます」
 ひしゃくにすくわれた透明な水が、容赦なく焼け石の上に降りかけられた。
「ああっ、よせ、やめろっ」という声ならぬ声が、皆から聞こえた気がした。 音にならない叫びは、ジュウワァアア…、というアロマ水が蒸発する音にかき消される。
 このサウナルームに、こんなイベントがあるなんて知らなかった。 さては社長のやつ、これ目当てで水曜と日曜に来ていたんだな。
 蒸気が、部屋中に立ち込めてくる。 スーッと爽やかな、そしてどこか甘さを含んだミントの香りがした。 爽やかな香りとは裏腹に、室内の温度が急に跳ね上がったように肌を刺す。 暑いを通り越して、なにやらもう熱い!… ヒリヒリする!
 やたらに「えー」の多い細目のバイトが、もたもたと説明を付け加えた。
「えー、本日はですね、えー、アロマ水はハニー&ミントの香りのほうですね、ご用意させて頂きました。 えーどうでしょうか、お鼻の通りなんかもね、こうスーッとよくなるような感じがすると思いますが、いかがでしょうか。 かなり熱く感じられると思いますので、ちょっときついな、無理だな、と思われた方はですね、いつでもご自由に退室の方していただけますので、えー是非お身体と相談して頂きながら、お楽しみいただければと思います」
 柄杓で3回ほど水をかけると、柄杓と容器を傍らに下ろし、バイトは手にもったオレンジ色のタオルを、ストーブの上空で、レゲエのライブ客みたいにくるくると回した。
 回しながら、俺達の傍を円を描くように歩き回った。 立ち上った蒸気が回転するタオルによって部屋中に満遍なく充満していくと同時に、肩や腕に微かな風が当たる。 湿度をたっぷり含んだ熱風は、少し触れただけでも、まさに『熱波』と呼ぶに相応しい熱さを秘めていた。
「ハイそれではですね、えー、おひとりさまずつですね、扇いでまいります」
 次に細目は、横に広げたタオルを持ち、社長に近づく。 社長が観念したように両手を挙げると、バイトは開いたタオルで、空気をはたくようにして、瞬間的にバッ、バッと正面から風を扇ぎかける。
「はいっ エイショー! エイショー! エイショー! ・・・ありがとうございまーす!」
 掛け声とともに5度6度吹き付ける熱波に、社長はぐっと目を閉じて耐えた。
 普段はこれが楽しみなのだろうが、今は、いつも楽しむコンディションよりも、ずっと我慢が限界に近い。
 ここへきて俺達は、はじめて鉄のスタイリングを誇っていた『七:三』が、『八:二』へと形を崩す瞬間を目撃した。

 ロウリュが始めてだというレスラーは、風を当てられるたびに、
「あーっ、はわーっ、ほぁーっ、んっふぅーーん!」
 などと、言葉にならない情けない叫び声を上げた。 おネエ爺は、「あーもう、バカ!ミントバカ!」とせっかくお店が気を利かせてくれたアロマ水の悪口をポロシャツに打ち返した。
 俺とイケメンは、声にならないようにと歯をくいしばったが、コレは、想像以上に効いた。 風は皮膚に突き刺さるような灼熱を、一瞬で全身に浴びせてくる。 瞬間的に、新しい汗がどっと噴出した。 アロマの心地よい香りも相まって、普段ならストレス解消に抜群であろうロウリュは、今や完全に、戦意喪失企画と成り果てていた。
 一通りが終わると、そばかすの方がまた柄杓で新たな水を汲む。 新たな蒸気が立ち上り、くるくるとそれを循環させる。 ぎょっとしてその様子を見上げた。 となりの卓郎も同じような表情を浮べている。 ――まさか、まだやるのか。 今度は二人がタオルを掲げて、とびきりの笑顔を見せた。
「はいそれでは二回目のほう参らせていただきます。 先程よりかなりお熱くなっております。 えー、それじゃ今度は二人交互に扇がせていただきますね。 何回いきましょうか」
「全員、8回で」
 ばっ、と音を立てて、全員が社長の方を向く。 ――ちょ、多いよ社長、2回でいいって!
「8回で了解いたしましたー、それでは参ります」
 オレンジ色のタオルが、俺には介錯人の一刀に見える。 端を持って横に広げられたそれが、じっと耐える社長の頭上に、翻った。
「男気 入りまァす!」 と言って細目がばさりと扇ぐと、
「エイショー!」 と掛け声を上げて、そばかすの方がまたバサリと扇ぐ。 それを交互に、4回ほど繰返した。
「思いやり 入りまァす!」
「エイショー!」
「侍魂 入りまァす!」
「エイショー!」
「100%勇気 入りまァす!」
「エイショー!」
「「…ありがとうございまーす!」」
 俺は戦慄に震えた。 あんなにたくさん扇がれたらもう終わりだ。
 ポロシャツを着た悪魔のような男達は、次に「優しさ入りまァす!」といいながら、アツアツの熱風をレスラーに叩きつけていた。


 6


 ロウリュ担当の二人組みによって、戦いは一気に最終局面へと持ち込まれた。
 時間は6分を超え、徐々に身体の水分が不足してくるのがわかる。 俺達は膝をつき合わせながら、うめきをあげた。 目の奥がドキドキと脈打つ感覚が消えない。 酸素が薄い。 喉が渇いた。
 ――だが、負けるわけにはいかない。
「次は、ハヤトくんの番だよ」
 力の無い卓郎の声に促されて、俺は指令役の事を思い出した。 今は正直、身体を動かしたくは無かったので、俺は、みんなと話しをする事にした。
「そうだな…それじゃあ皆さん、ちょっと話をしましょう。 おひとりずつ、この戦いに勝利したらサウナ神に何を願うのか、打ち明け合いませんか」
「ほう…それは、いいね。 僕も聞いてみたい」
 社長は笑顔で賛同してくれた。
「ではハヤトくん、何を願う? 君は、何の為に戦っているのか。」
「俺は――」
 俺は、ありのままに話していた。 赤の他人に、自分の心の弱みを話すことなど、普段の俺ならしなかっただろう。 何故だか、このサウナルームにいるライバル達には、何も気兼ねせずに、本音が話せた。
「俺は、自分の我侭のために戦っています。 彼女とやり直したいんです。 今日、別れてしまった彼女と」
 皆は、切ない視線で俺を見た。
「俺が悪いのでしょうけど…浮気されちゃったんですよ。 今までの2年間て何だったんだろって思うほど、淡々と切り出されちゃいました。 …彼女と、もう一度やり直したいんです。」
 昭美は、どうしてあんな風に言ったのだろう。 「もう決まった事だから」と、別の男と生きていく事を決意するまで、俺はただ、能天気に彼女をほったらかしにしていただけだったのか。
 俺は、自分の口から出て行く言葉に、自分の心を再確認した。
 俺は昭美が好きだった。  そうだ。 あの小さな胸も、好きだった。 今も好きだ。
 さよならと言われて、そう簡単に、ハイわかりましたなんて思えない。 心にぽっかりと空けられた穴から、濡れた痛みが滴り落ちるのを、ずっと乾くまで、ただ我慢することなんて出来ない。
 こんな苦しみ、初めから無かった事にしたい。
「そうか…そうだろうね…」
 卓郎がポツリと言った。
「まあ、男らしくはねえが、その気持ちはわかるぜ。 褒められたモンじゃないが…」
「そうね。 …アタシも似たようなものかな。 結局 悩みや願いなんていうのは、自分本位なものよ。 …アタシは若さが欲しい。 満足に恋もしないまま、死ねないわ」
「死か…うん」
 社長はぽつりと言い、頷いた。
「それを言ったら、オレは――」
 卓郎は、苦しみを吐き出すような声色で言った。
「オレには――何も無いんです。 今の生活を変えたい。 オレは、ずっとフリーターなんですよ。 今年で26になるんですけど、高校の時ひきこもりになってから…ずっと今も、やりたい事が見つからずにバイトを続けてる。」
 俺はただ淡々と、そうだったのか、と切なく思った。
「家族からもお前はもうダメだって、ずっと言われているし、バイト先でも、後輩にまでお荷物扱いされる事もあります。グズだから、何やっても全然うまくできなくて、人ともうまく関われなくて、陰口叩かれて… ずっと耐えて、今も生きているけど、この先の事を考えると、時々不安で眠れなくなる。 好きな彼女の事も、幸せにできる自信がない。 …オレは、基本的にダメなんす。 だから、もしあのジイさんが本当に神様なんだったとしたら、オレの人生を変えてほしい。 オレを変えて欲しい。」
 彼の独白を、笑う人はいなかった。
 卓郎が「我慢は得意な方ですから」と自己紹介で笑ったときの表情、どこか自嘲的だった笑顔が、思い出された。
 悪役レスラーの表情で、毒斑キッペーが言った。
「空気を壊しちまったら申し訳ないが、俺は、金のためだ。」
 すぐに三白眼の瞳が、自信なさげに伏せられる。
「小さな弱小プロレス団体で、給料は安いが、家には女房と小さな娘が三人。 食わせていかにゃあいかん。 しかし俺の場合、ファイトマネーだけじゃ食っていけない。 近頃は、身体のあちこちにガタがきててな。 つぶしの利かない仕事を続けて、貧乏なままの暮らしで、家族を幸せにできるのか、不安だ。 ずっと考えてる。 引退して、ふつうの会社で働くべきなのか、それとも――これからもずっと自分の夢と我侭を通して、今の職場で戦い続けるか」
「毒斑さん…」
「家族の幸せが一番だ。 だけど、それは、誰かに願って叶えてもらうのとは違う気がする。 金がありゃもれなく幸せになれるってわけじゃあないが、少なくとも、生活はやっていける。 月並みだけれど、やっぱり俺がどんだけがんばったって、満足に与えてやることができないものを、願うしかないよ」
 レスラーの家族の本当の願いが、金かどうかは、俺達にはわからない。 この人の家族は、この人の健康をこそ願っているのではという気もする。だが、それは今は、関係ない。 レスラーは、ただ彼なりに家族の事を思い、戦っているのだ。

「…僕はね、幽霊になりたいと願おうとしていた。」
 社長がふいに言った。
「幽霊に?」
「ああ。 死は、怖くない。――と言えば、嘘になるかな。 だが、冷静に受け止めることが出来ている。 他人(ひと)よりは短いかもしれないが、私は充実した人生を生きた。 だけれど、叶うなら私が死んだ後の世界を、少しの間見ておきたくてね。」
 彼の口ぶりは、自分にとって死が身近なもので、まるで近く約束があるかのような口ぶりだった。
困惑する俺たちに、社長は、にこやかな笑みを浮べて言った。
「すい臓癌でね。 余命半年と言われた。 社長でいられるのも、あと僅かだ。 取締役会で次の人選も決まっているし、今は引き継ぎ中なのだよ。 ―あ。 これはまだ、リリース前のインサイダー情報だから、どうか皆さん、ナイショにしていてくださいね」
 ニヤリといたずらっ子のような笑みを浮かべて、社長は笑った。 俺達は、何と反応していいのかわからなかった。 嘘をついていると疑ったのではない。
 レスラーが思わず腰を上げた。
「社長さん…なんで幽霊になりたいなんて言うんだ。 病気を治してくれって願えばいい! 死んじまうんだぞ!」
 そしたら、今すぐ俺達はここから出て行くよ。 全部解決するじゃないか。 レスラーの言葉に、俺も頷いた。 次々と賛同の声が上がる。
「そうよ」
「あなたの境遇にくらべれば、オレ達の願いなんてたいした重さじゃない」
 口々にそうしよう、と頷きあうライバル達を、社長が制した。
「ありがとう。 でも、同情は無用だ」
 嬉しそうな笑みを浮べて立ち上がり、レスラーの大きな肩を叩いた。
「これは、頑固者のプライドだ。 天命と思って受け入れている。 だけどね、そう言ってくれるだろうと思ったから、僕は最初の脱落者となろうと思った。 貴方達の申し出は有難いが、気持ちだけ、頂いておくよ。」
 立ち上がったまま、一歩、また一歩と出口へ向かって歩いていく。
「僕はいつも、ここに来るとね、人生について考えていた。 そして、気づいた。 人生で、自分で選ぶ事のできる選択肢にはね、二つしかないんだ。 “今のまま続ける”ことと、“別の道を探す”ことだ。 これって、サウナに似てないか」
 翻したタオルをギュッと腰に巻きつけて、社長は言った。
「僕は、初めから、“続ける”ことを選ぶと決めていた。 仕事は止めざるを得ないが、後悔はない。 ――君達の戦いが良い結末を迎えられるよう、祈っているよ」
 ドアが開いた。 白髪の混じる七:三が、吹き込む風にふわりと揺れた。 かける言葉は見つからなかったが、言葉など不要と、その後姿が物語っているように思えた。
「グッドラック」
 閉じていく扉の向こうに、一瞬だけ、力強いサムズアップが見えた。
 最初の退室者は、7分15秒で、自らこの部屋を後にした。



 

2012.10.21 Update.

 
 

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※ 本作は、吉田和代様主催の同一テーマ創作企画 『オンライン文化祭』 に登録させて頂きました。





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