『 ペンギン・マター 』
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いつもなら足がつく川のはずなのに、どうしてだろう、ぐるぐると目が回って、どっちが川底だかわからない。
 
したばたともがけばもがくほど、思考はパニックへと陥る。
 
自分を押し流す水の音と、ノイズのような雨音に混じって、姉の夏海が自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
 雪丸は
声に応じるように
水面に顔を出したかと思うと、また沈み、必死に伸ばした手は岸をしたが、その手は虚しく空気を掴む
 
お姉ちゃん、大丈夫やで。 僕は平気。 ぜんぜん大丈夫。 そう言葉にしようとするが、口は水でふさがれ、言葉は気泡になって逃げていく。 だぼつく黄色い雨合羽は背中から足元にかけて、雪丸の足を縛るようにぴったりと身体にはりついて離れない。
ユキ
! 今助けるから!!」
 
たらダメ! と、言葉にならない言葉をあげる。
 雪丸は、後悔した。
 
こんなに流れが強いなんて思わなかった。 これでは、泳ぎの得意なお姉ちゃんでも、きっと流されてしまう。
ああ、お母さんを迎えに行くなんて、無理を言うんじゃなかったな。
僕が死んだら、お姉ちゃんがまた寂しそうな顔になっちゃうな。 お母さんも。おばあちゃんも。 また、あの時みたいに。
――それはあかん。 絶対にあかん。
しかし、手足の自由はきかず、成すがままに流されていく。 再び雪丸が水面に顔を上げたその時、もうひとつの声が聞こえた。
『ナツミ、お前はたもとまで戻っていろ!!』
 ルルだ。 彼は大きな声で夏海を制すると、よたよたとした足で橋の上を走り、滑空するように、流れの中へと踊りでた。
 暗くなっていく視野の端に、雪丸はきらきらと輝く白い水泡をみた。 それは濁流の中で自分に追いつき、流れの外へと押し出そうとする、ペンギンの姿だった。


『…地球星人というのは、なんて泳ぎの下手な生き物なんだ』
 ルルは、川岸に辿りつき、飲んだ水に噎せ返る雪丸を見て、溜息をついた。
あの程度の水流、簡単に渡れるものと思ったが、そうではなかったらしい。 たかが“母親を雨に濡れさせたくない”という下らない理由のために、命を失うような危険を冒すつもりだったのか。
「げほっ、おえっ、ごほっ」
 涙を流している弟の背中を、姉の夏海は思い遣るようにさすっている。
彼女も傘を放り出しているので、全身ずぶ濡れだ。 鼻水と涙を流しながら、「よかった、よかった」と繰返した。
 その姿を見ていると、ふとルルの胸に、ぴり、と電気のように発生した思いがあった。
 とりあえず、助かったのならばよかった。 そんなことより、自慢の羽毛が川の水で泥だらけになってしまった事のほうが気がかりだ。 帰ったら水浴びしよう。
『どんどん水かさが増してる。 ナツミ、ユキマル。 早く上に上がろう。』
 そうして立ち上がった二人と一羽を、懐中電灯の小さな光が照らした。
二人の後を追った幟さんが、追いついたのだ。 全力で走ってきたのか、肩で息をする幟さんは、ふたりに負けないくらい、雨に濡れていた。
「ナツ! ユキ!!」
 母親に抱きしめられると、ふたりは安心して、大泣きをはじめた。
ルルは『地球人の鳴き声はうるさいなあ』と苦笑いを浮べたが、何故だか心が温まるのも、また確かだった。





「なんで勝手に出かけた! 次から雨の日は外で遊んだらあかん!」
 ナツとユキはこの一件で、幟さんとアキさんから大目玉を食らう事になった。
 部屋中に響く大きな怒鳴り声に、ルルは思わず首をすくめた。 アキさんは怒ると恐ろしい。 だが、上目使いでそっと見上げると、その怒り顔の目尻には、安堵の涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい…」
 そして、ルルは知っていた。 目の前でうなだれる姉弟の二人が、だまって出かけようと決めたとき、「山道は足がつらいと思うから、おばあちゃんを付き合わせるわけにはいかへん」とさりげなく祖母を気遣っていた事も。
 次は自分が怒られる番だな と腹を括っていたルルは、ふたりの大人が、両手を床について深く頭を下げたのをみて、目を丸くした。 てっきり、自分も怒られるものと思っていたのだ。
「孫を助けてくださって、ありがとうございます」
『と、当然のことをしたまでです』
「ルルちゃん、本当にありがとう、あなたは命の恩人だわ」
『大袈裟な。 俺は、ちょこっと泳いだだけです』
 こうしてルルは、緒方一家の信頼を得た。 アキさんと幟さんは、彼が星に帰るために できるかぎりの支援を行う約束をした。
「日本人はね、恩を忘れない生き物なの。 ルルは雪丸の命の恩人なんだから、これくらい当たり前よ」
 そうして、母屋でとる家族の食事にも招待してくれることになった。 
「それを言ったら、俺の命の恩人はハハさまという事になるのだが… ご厚意、ありがたく頂戴します。」
 ルルは食事のサンプルを検査し、持ち込んだ機械で食べられる事を確認すると、喜んで緒方家の面々と一緒に食卓を囲んだ。 ボートに積んできた非常食には限りがあったので、願ったり叶ったりだったのだ。


 その日の夕食は、グィングィン星の高級食『アーズィ』に良く似た魚だった。 日本語では、『アジ』という。 塩焼きなる調理がされているらしい。
 グィングィン星には、料理という概念がない。 地球名で言うオキアミや、イカなど、小動物なら丸呑みが当たり前だ。
ルルは不思議そうにクチバシを近づけてみた。 なにやら香ばしい香りがする。 フリッパーの先に8本指の手袋のような機械をはめると、幟さんに促されるままに、生まれて初めて『お箸』なる地球の道具を使ってみた。
 操作方法の難しい『お箸』に戸惑いながらも、火の通った身を一切れとって、食べてみる。
すると、どうしたことだろう、ルルのくちばしの中を、今までに感じたことの無い衝撃が駆け抜けた。

『うまッ! なんてことだ!!』

 
彼は思わず立ち上がると、ぎょろりと目を剥いて、フリッパーを振り上げ 「ギョエー、ギョワーッ!」とグィングィン星の言葉で叫んだ。 
「我、発見せり!」という意味の言葉である。 それほどに、衝撃的だったのだ
 幟さんはびっくりしてのけぞり、アキさんはお箸につかんでいたたくあんをぽろりと落とした。
アーズィとは、焼くとこんなにも旨みが増すものだったのか!
「なんだ、美味しかったのね。びっくりした…」
『びっくりしたどころではありませんよ!』
 
今まで、
『丸呑み』では気がつかなったが、アジの脂は焼くことで旨みへと変化し、さっぱりとした身はほろほろと口の中で繊細な美味を奏でた。 湯気をたてる白く美しい身に、大根おろしちょっぴりお醤油をたらして、ご飯と一緒にかきこめば、これがまた、とんでもなく美味なのである。
 隣で、アキさんが雪丸に鯵の綺麗な食べ方を教えるのを見習いながら、ルルは思った。
(丸呑みだなんて、今まで何ともったいない事をしていたのだろう…
 
この星の科学技術はまだまだグィングィン星に及びようもないが、地球星人の豊かな一面を、
深く心に刻み付けた



☆ ☆ ☆



 雨の金曜日が終り、晴れの週末がやってきた。
 幟が庭で洗濯物を干していると、楽しそうにはしゃぐ姉弟の声が聞こえてくる。
夏休みが始まってから、あまり聞くことのなかった声だ。 顔を上げると、夏海とルルが縁側をどたどたと駆けている。
 遠くからは、いーち、にーい、さーん、と、雪丸が数を数える声。 さてはかくれんぼをしているのだろう。 こちらにやってきた夏海とルルは、隠れ場所を探しているようだった。
 小学2年生の娘の後を、おぼつかない足取りで、異星人が続いていく。 ――本人は異星人だというが、幟の目にはどうみてもペンギンにしか見えない。 だけれど、その異星人は、今ではすっかり緒方一家の一員として認められていた。
「も〜〜いい〜かい?」
『ま〜だだぞ〜』
 すっかりフリッパーの傷も癒えて、包帯の取れたルルは、幟を見つけて縁側で立ち止まると、敬礼するように背筋をぴんと伸ばして言った。
『ハハさま、冷蔵庫に隠れたいのだが、許可をください』
 幟は、思わず笑ってしまう。
「ダメ」
 さすがにそれは許可できないし、そもそもあんなに大きな鳥は入らない。
「も〜〜いい〜かい?」
『早いぞユキ! ま、まだ待てっ』
 くわーとくちばしを開いて、ルルはいつもの倍速であたふたお尻を揺らしながら、客間に入っていった。

 ルルは、たしかに知能の高い異星人のようだった。
 地球についての基礎的な知識を持っていたし、少々たどたどしくはあったが言葉も話す事が出来た。 トイレも汚さずに使うことができたので、簡単に緒方家での地球生活になじんでしまった。
 フリッパーの先に、手袋のような機械をはめて本も読む。 驚いたことに、同様にしてお箸を握り、ご飯も食べる。 TV番組も好んで見るし、新聞も読むことが出来た。
 その生活は細やかで規則正しく、自主的に一日に2度以上水浴びを行う綺麗好きだったので、幟も、アキさんもあっという間にルルの事を気に入った。
近頃では、「まったく、ルルちゃんを見習いなさい」だなんて、お小言にまで登場させてしまうくらいだ。

 ルルが家にやってきてから、緒方家の長女には、良い変化があった。
おばあちゃんの家にやってきてからというもの、ずっと元気のなかった夏海だが、近頃は毎日楽しそうに笑っている。
 それまでのだらしない生活も、一転して規則正しくなったし、ルルの地球での生活を支援するのだと発奮して、山をひとつ越えた隣町の図書館まで自転車を走らせ、ペンギンの生態に関する書物を読みあさるなど、熱心だ。
 ルルは常温でも活動ができるようだったが、彼にはやはり日本の夏は暑すぎるらしい。
 客人であるルルには、夏海と雪丸が昔よく遊んだ子供用のビニール・プールが与えられた。 井戸水を入れた冷たいプールは、ルルにとって快適な水浴び場になった。
このプールは、海に行けなかった夏海が、せめて足くらい浸かりたいと文句を言って自宅から持ち込んだものだったが、意外なところで役に立った。
 甲斐甲斐しくルルの面倒を見る夏海を、幟は意外とたくましいなあ、なんて思いながら、ひっそりと見守っていた。
 洗い立てのシーツで風を叩き、物干し竿にかける。 真っ青な空に浮かぶ太陽から、刺すような日差しが降り注ぎ、白いシーツに反射した。

 夏休みはまだまだ始まったばかり。
そして―― 後に一家に大事件が待ち構えていることなど、彼女たちは知る由もなかった。





to be continued.





2012.7.20 Update.

  


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やっとお話が進み始めます^^;


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