『 たてぶえ 』 1 / 2 / 3
――――――――――――――――――――――――― 1日目
対馬 博(つしま ひろし)は、音楽の授業中に考えた。
クリーム色の音楽室で、窓際の一番前に座る女の子。みんなのアイドルである 本洲 撫子の手の中にあるもの。
それは、バロック式の音孔をもつ ソプラノ・リコーダーだ。
英林小学校3年生の生徒達は、この冬に体育館で、保護者参観を兼ねたクラス演奏会を開く。
決められたテーマ曲を、縦笛、鍵盤ハーモニカ、マリンバ、鉄琴、大太鼓、小太鼓を使って演奏し、どのクラスが一番上手かを、競技するものだ。
全3クラスの生徒達は、おのおの自分達で選んだ楽器を授業で練習し、きたる演奏会へ向け その腕を磨いている。
ここ3年1組の楽隊で、博もたてぶえの組に入っていた。
ほんとうは習い事をしていて ピアノが得意だったのだけれど、わざとたてぶえの組に入ったのには、2つ理由があった。
そのうちひとつは、仲の良い友達、千嶋 良太が、たてぶえ組に入るつもりだったからだ。
ピアノが得意だといっても、鍵盤ハーモニカを弾きながら、遠くで親友達が楽しそうにしている様を見るのは、ちょっぴり気が引けたのだ。
そしてもうひとつは、今、彼の目線の先にある。
クリーム色の有孔ボード壁に囲まれた音楽室の中で、その孔の向こうに張られたグラスウールの吸音材が音をあつめるように、彼女の存在はいつも、ごく自然なこととしてクラスの男の子達の視線を集めた。
窓際に座る少女は、透き通った冬の陽気にてらされて、その横顔は神秘的なまでに輝いて見える。
博は気が付いていなかったが、女の子の話をするといつも不機嫌になる良太ですら、
ときどき、ぼーっとして撫子のほうを見ていることがあるくらいだ。
いわずもがな、博は撫子に恋をしていた。
博だけではない。 誰も素直に認めようとはしないが、間違いなく、本洲撫子のことを密かに想う男子は多い。
その証拠に、彼女がたてぶえ組希望で手を挙げた瞬間に、たてぶえ組は、一番競争率の高い人気楽器となった。
何とか仲良し2人組は、じゃんけんを制し、無事たてぶえ組に入ることができたのだけれど。
「おい、ヒロ。 いけるか?」
心ここにあらずといった博を、隣の良太がひじで突っつき、それに驚いた博は変な音をピヨと鳴らせてしまった。
なんやそれ、と良太が笑って、まわりのたてぶえのみんなもけらけらと笑う。
くすりと撫子も笑ったのが見えて、博はなんだかとても嬉しくなる。
また、意図せず視線がそっちにいってしまうのを感じた。
「もいっかい、はじめから通すで。 いいか?」
「あ、うん。」
課題曲はベートーヴェン作曲の「よろこびのうた」だ。
博は何年か前に、ピアノ教室でやったことがある。
右手と左手でたてぶえを構えて、博はOKと合図した。
先生の、せーの、の指揮にあわせて、旋律が響き始める。
ミ・ミ・ファ・ソ・・・ソ・ファ・ミ・レ・・・
音孔を追いながら、博はさっき思いついた考えを頭から追いやる事に始終していた。
考えついてしまったのだ。
彼女のたてぶえの頭部管と、自分のそれをひそかに交換したらどうなるのか。
そうしたら。
そうしたら必然的に・・・間接キッスが実現してしまうのではないかと。
――大変なことだと思った。
音楽の授業が終わり、3年1組の教室に移動する間、親友の良太は相変わらずの調子で、女子のスカートをめくったり、悪口を言ったりして、いつものように彼女達にいじわるを働いている。
良太は男子達の間では人気者だ。 そのかわりに、女子にはこっぴどく嫌われていた。
博は「しょうがない」と思っていたが、反面、良太のそうした積極的なところがとてもうらやましかった。
「お前ブスやなー」
と言って撫子をからかうことなんて、博にはとてもできない。
泣かれても、その時ごめんと謝って、3日もすればまたいじわるしている。
「お前、やっぱ和田アツコみたいな髪型しとるなー。 マジで和田アツコにしか見えへんわー。」
音楽室からの帰り道、今日もそうやって、良太が撫子をからかっているのを博は遠まきに眺めている。
「アツコとちゃいますー。 なによ、アホのくせして。」
「アホって言うほうがアホなんですー。 本洲アツコさん。」
「子供みたい。 むかつくわーあんたとしゃべってたら!!」
ムッとしてるその表情にも、博はつい見とれてしまう。
良太みたいに、本洲撫子に気安く話しかけて、軽口を言い合ってみたい。
そんな事は、一生叶いそうにない気がした。
(きてしまった・・・)
そして、博は、ついに夕暮れの教室に立っていた。
追い払おうとした考えは、払おうとすればするほど頭の中でむくむくとその容積を増やしていった。
下校の帰り道、良太といつもの交差点で別れると、すぐにそのまま教室に引き返してきてしまったのだ。
その席に近づくだけで、ドキドキと心臓が高鳴り始める。
(こんなことしたら、絶対にばちがあたるよなあ)
思い直し、うろうろと教室を行き来する。
同じ階のどこかで物音がする度、博は硬直し、そして数分後にはまた葛藤をはじめた。
正面から撫子に、「好きだ」と言うつもりはない。
そもそも、博にとっては「告白」という概念すらもちあわせてはいない。
仲良く話したこともなければ、良太みたく「消しゴム貸して」と文具を借りたこともない。
だから 同じたてぶえ組に入れただけで、もう十分だったはずだった。
それなのに、いったん芽生えた青い雑念は加速度的にふくらみ、あっという間に博の心を征服しようとしている。
(・・・やっちゃえよ。)
博の心の中で、さんかくの尻尾を生やした悪そうな博が、目を細めて耳元で囁いた。
(ほれ、何しとんの。)
ごくりと博は、生唾を飲みこむ。
一歩近寄ると、今度は心の中で、白い衣装を身にまとった博が抗議の声をあげた。
(なんも知らんとそんな事されたら、きっと本洲さんは悲しむよ!!)
悲しそうな撫子の顔が浮かんで、突然博はそれ以上進めなくなる。
尻尾の博は、冷ややかな目でもう一人の自分を睨め付けた。
(アホかお前。 バレんかったらええねん。)
(ええわけないよ、ちょっとまってよ、普通に考えたらわかるでしょ! やられてイヤな事はしたらあかんよ!!)
(…イヤイヤイヤ。 この場合、同じことされても? 博は嫌じゃないし? 向こうも気づいてないから誰も嫌な思いはせーへんのよな。 なぁ博よぉ、お前なんのためにわざわざ教室まで帰ってきたん?)
いよいよ耳元の天使と悪魔は、パンチグローブを手に殴りあいをはじめた。
約2分間の乱闘の末、心の中で勝利したのは悪そうな顔をした方の博だった。
(――バレるわけがないよな。 今、ここにおるのはぼくだけやねんし)
誰もいないことはわかっているのに、抜き足差し足で彼女の机に忍び寄る。
意を決して手を伸ばし、花柄の手提げ袋から、白いくまのプリントがされた麻袋を手に取る。
震える手で、くっついたままの頭部管を取り外し、そして・・・
2分後、博は走って教室を後にした。
大きな達成感と、同じくらい大きな罪悪感を胸に抱えて。
次の音楽の授業は、3日後の1時間目だ。
待ち遠しい気持ちと、自分自身に対する失望感がごちゃまぜになって、
心臓がばくばくと音を立てた。
傾きかけた陽光が差し込む教室の中、チクタクと静かに針を刻む時計は、午後4時を指していた。
つづく。
2010.01.28 Update.